神坂峠の発掘、伝教大師最澄と信濃比叡

昭和44年(1969)、高校3年の夏休み、村議会議員であった祖父熊谷清から、

「神坂峠の発掘で、高校生のアルバイトが要るというから行ったらどうか」

と話があった。峠は標高約1600メートルの位置にある。

中央アルプス登山の足がかりとなっている萬岳荘(ばんがくそう)で待てば、中学社会科の石川先生、高校歴史の水野先生、そのほか数人の教師と学生のあとに、国学院大学大場磐雄(いわお)教授が登ってきた。

大場教授は考古学の第一人者であり、民俗学者の柳田國男や、文学者の日夏耿之介(ひなつこうのすけ)と親交が深く、当家の別家である熊谷源三郎が日夏耿之介と交流があったことから歌を詠(よ)んでいただいた。

「千早ふる神の御坂の跡みむと峠とよもし鍬(くわ)の音する」

指に醤油で書いた色紙は、祖父の書棚に飾られた。発掘は学生たちだけで行われた。

アルバイトの私は遠巻きに、どこで何が出るか興味津々であった。発掘物のすべてが萬岳荘に並んだのが8月8日。

大場教授が「勾玉、これは旅人のお守りではないか」と言い、5ミリ程度の穴が開いている玉を指し、「これはいくつかを紐で通し数珠(じゅず)とした」と説明する。

小さめの土瓶のような物が目を引いた。

「お神酒(みき)を入れた器ではないか」

古墳時代から平安時代の出土品はお守りだというが、私には神具一式に思えてならなかった。村は峠の出土品の扱いに慣れておらず、しばらく役場の2階で展示していたその遺物を、飯田市開善寺の宝物殿に預けていた。

それを知った20歳の私は思い立った。

「峠の発掘品を保管する施設を園原に建設してほしい」

と、黒柳村長に直訴(じきそ)したのである。村長席の真ん前に教育委員会の席。

「教育長、熊谷君の話を聞いてみてください」

「わかりやすいように図面にしてください」

と教育長が言う間もなく、園原資料館の計画図を出していた。伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)。比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を開いた日本天台宗の祖である。

東国布教の折、神坂峠を越える旅人の難儀を救うため、無料宿泊所である薬師堂を峠のふもとの園原に建てた。当家をはじめ園原の人々は「お薬師さま」「月見堂」と呼び、大切にしてきた。

月見堂と呼ぶのは、源仲正(みなもとのなかまさ)の「木賊(とくさ)刈るそのはら山のこの間よりみがかれいづる秋の夜の月」の歌にちなんだものだ。