江戸時代、小さな水害は3年に一度くらいの割で起きており、だからこの地域に住み始めた人々は、少々の出水でも生活が止まらないよう、高床式の倉庫を建てるなどさまざまな工夫をしてきた。死者が出るほどの大きな水害は、30~40年ごとに起きていたそうだ。

明治になって東京が首都になると、これらの地区にもますます人が住むようになるのだが、1910年(明治43年)の東京大水害では、利根川や荒川水系の各河川の堤防が各地で決壊し、東京の下町一帯が冠水した。この水害を契機に「荒川放水路」の開削工事が始まった。北区の岩淵から河口までの22キロに幅500メートルの放水路を作るという大工事だった。

関連工事も含め完成したのが1930年(昭和5年)で、同じころ江戸川放水路も完成している。その後1965年(昭和40年)に放水路は正式に荒川の本流とされ、それまでの旧荒川全体が隅田川となった。それまでは千住大橋を境に、上流が荒川、下流が隅田川と呼ばれていた。

なお荒川放水路は完成当時都心部側を守るために右岸の堤防の方が高く、厚く作られていた。水量が増したときは左岸堤防を越水させ水を逃がす、すなわち荒川東側地域は当時は遊水地という考えだった。これは首都を守るということから当時としては当然の考え方だったようで、1933年(昭和8年)に完成した多摩川の当時の堤防も、右岸、すなわち川崎市側の方が東京都側よりも低かった。

荒川も多摩川も、その後堤防改修工事がなされているので、今は場所によって一概には言えなくなっているが、工事の進捗度合いによって、いまだに越水が起きやすいところが残っている。

このような経緯から、もともと遊水地となる可能性のあった荒川以東のみを移転対象にすればいいではないかという考えもあると思うが、今やゼロメートル地帯は荒川の両側に等しく広がっており、隅田川と荒川の間の墨田区・江東区の水没可能性も同じようにあり、いったん水没したときの復興などを考えると、移転対象は隅田川以東全域とすべきと考えた。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『自然災害と大移住』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。