中井はその後の事はほとんど覚えていない。悪夢の中、家路を急ぐ落胆の日本人の観客を掻き分け、チェコの応援団がその喜びを爆発させていたのをぼんやりと見ていた。警備員をほぼ無視する形で彼らはコート内に侵入し、カラスの元へ駆け寄る。もみくちゃになったカラスは応援団になにか大声で叫んでいる。相変わらず何を言っているのかは分からないが、感謝の意を伝えているのは、誰の目にも明らかだった。

「応援ありがとう! この勝利は君たちのお陰だ!」そういうニュアンスで間違いないだろう。カラスの目に大粒の涙が光った。

続いて高校の放送部に毛が生えた程度の規模であったが、チェコの報道陣もカラスに詰めかけインタビューをしていた。カラスが何かコメントをしている。このコメント内容が二十数年後に物議を醸す事になる事はこの時点では知るべくもないが、とにかく興奮した状態で、早口でカラスは何かをまくし立てていた。日本のテレビ局も、さすがに優勝者の優勝直後の状況を撮影しない訳にはいかない。

不本意ではあるが、この事実は日本側に映像と音声の記録として残った。そう、チェコ語を翻訳しないままに。

主催者側の大会役員、スポンサー、テレビ局、そして勿論日本人観客は白けた雰囲気になった。さらにこの大会を最低にしたのは次の締めくくりのアナウンスだった。

「ご来場の皆様にご連絡申し上げます。台風十九号の接近に伴い、皆様のご帰宅の際の交通に影響が考えられます。誠に残念ではありますが、優勝セレモニーを中止とさせていただきます」

もうどうでもよかった。このアナウンスの有る無しに拘らず観客のほとんど全員が家路を急いでいた。カラスは残念がると思われたが意外や意外、これを快く受け入れた。当時のカラスにとっては破格の、日本円で賞金三百万円さえ受け取る事ができればそれで良かったのである。

テレビ放送はどうなったか?

日曜日の早朝、日本国民は衝撃を受ける。国民的スター『高原健太』が急逝したという。マスコミは一斉にこの報道一色となり、昼頃にはほとんどのテレビ局が追悼特番を組む体制となっていた。四時になった。テロップが流れる。

【この時間は予定を変更して、高原健太追悼特別番組を放送いたします。なお、本来放送予定であった、テニス『東京オープン男子シングルス決勝』の模様は、本日深夜二十七時〜二十八時(要するに夜中の三時〜四時)、ダイジェスト版として放送いたします】

中井惨敗の図、なのだ。放送せず、試合など無かったものとして永久に葬り去る事もできた。だがそれでも(たった一時間しか枠は取れなかったが)TV亜細亜は放送する事にした。その理由を強いて言うとするならば、全国のテニスファンへの懺悔程度といったところであろうか。

当日TV亜細亜は、高原健太の往年の映画を淡々と放送した。皮肉にも本来テニス枠で取っておいた二時間が、映画の上映時間とぴったりだった。

キャプソンは特に困らない。十五分毎に流れるキャプソンの独占CMは、中井が優勝しようがしまいが、関係なく流れた。【提供 キャプソン】がアピールできさえすれば、番組内容は何でも良かったのである。

中井側の一部関係者が、キャプソン及びテレビ局に抗議したが、いずれも一蹴された。中井側の主張は、土曜日の準決勝(つまり中井勝利)の映像と日曜の映像を半々にして(願わくは、土曜の映像比率をできるだけ多くして、いや、我儘を言えば中井の良いところだけ切り取って)本来の二時間枠を独占できないかという事だった。キャプソンとテレビ局の答えはノー! 深夜枠であろうが放送してもらえるだけ有難いと思え!とでも言いたげだった。

当時の中井は、所詮学生のアマチュアであって、何も分からずキャプソンの神輿に担がれただけだった。従って当然プロのマネージャーもおらず、ましてやエージェント契約など、銀河系圏外の発想だった。

TV亜細亜は(中井にとって良い順に)準決勝、決勝と連続して快勝した場合、準決勝は勝利したが決勝は惜敗した場合、準決勝で敗退した場合、いずれに転んでも番組の編成ができるようシミュレーションしていた。その為の日曜のみの放映予定であり、録画中継だった。高原健太急逝のニュースは想定外であったが、映画を垂れ流しさえすれば良いだけなので、スタッフとしては編集の手間が省け、結果オーライだった。かくも大人の世界はドライで残酷なものなのである。

その日の深夜(厳密にいうと翌日の月曜日)、試合の模様がテレビ中継された。一時間に短縮したTV亜細亜のやっつけの編集。当然中井の見せ場など皆無だった。夜中の三時からの視聴率などたかが知れている。中井自身はもうどうでもよかった。

中井に親しい関係者には、不満の声が燻っていたが、すべては大人の世界に巻き込まれ、取り込まれ、握り潰されていった。相手側の出方もあるが、中井側の関係者がこれ以上抗議の声を上げなかった一番の要因は中井だった、中井本人だった。周りの人間が心配になるほど、中井はショックを受け、意気消沈していた。中井自身にファイティングスピリットが失われている以上、周囲の人間が口を出す大義名分は無いのである。

その後二十年、中井がテニスの世界の表舞台に立つ事は無かった。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『センターコート(上)』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。