バイクが溢れ、騒々しいほどのホーチミンの賑やかさの中に身を置くと、人影も少なくガランとしてまるで時が止まったかの様な昔のあの街は、幻であったとさえ思えてくる。夜の帳が下りる頃、歩くのに疲れ果て、冷たいビールと海鮮主体の中華料理で命の洗濯をした。

ほろ酔い気分で風に吹かれながら、ホーチミンの街中を流す。ポン引きが寄ってくるが一切無視。重厚なマジェスティック・ホテルの最上階のダンス・ホールに足を延ばした。

お酒を飲みながら、フレッド・アステアも真っ青になる程の華麗なステップでジルバを踊るハンサムなプレイボーイのダンスに見入っていた。どの位の時間が経ったのだろうか。急に明かりが消え、細みで長身の女性歌手が壇上に登場し、スポット・ライトがあてられた。

厚化粧の歌手の顔は、決して美形とは言えないが、切れ長の目でひときわ哀愁を誘うような顔立ちであった。長身の体には緑のドレスがはえていた。「ホーチミンの歌姫」と名づけた。英語でのポピュラー・メドレーは、聞きごたえがあり、ゆったりとした気分にさせてくれた。

ややあって、突然聞いたことのあるピアノの前奏曲が流れてきた。おやおやと思った。そして驚いたことに歌姫の唇から日本語が飛び出してきたのだった。山口百恵の「秋桜コスモス」を、彼女は完璧な日本語で歌い出したのだ。

何故、彼女はその曲を選曲したのだろう。歌詞の内容を知っているのだろうか。そんなことを考えていた。歌手の歌う言葉を一つ一つ追っている内に、無性に切ない気持ちが、せきを切って溢れ出し、不覚にも涙がこぼれてしまった。かなりお酒が入っていたせいなのかもしれない。

旅先の一夜の単なる感傷なのかもしれない。あの時の気持ちは、未だに整理出来ないでいる。三島由紀夫は、ある小説を評して「完全に感傷を排除した作品」としている。

私が聞いた「ホーチミンの歌姫」の歌は、私を感傷の奈落(タイ語でもナロックと発音は一緒)の底に落とすには、わけがなかったのである。一九九三年二月、約二年ぶりに日本に帰る機会があった。

温泉三昧に出かけた信州では、あちこちにコスモスの花の群生が見られた。秋の陽だまりに咲いているコスモスの花を見て、「ホーチミンの歌姫」を思い出し、その「秋桜」の歌が私の脳裏の中で鳴り響いたのであった。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『タイの微笑み、バリの祈り―⼀昔前のバンコク、少し前のバリ― ⽂庫改訂版』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。