ヤワラート「迷宮の魔都」

雨季も終わり、凌ぎやすくなったある日の夕方、暮れなずむサンペン小路をひやかしたことがある。

道端の夥しい程のごみの量に圧倒されながらも、家路を急ぐ人達で一杯のサンペン小路を歩いた。

やがてメナム河(バンコクでメナム河と言えばチャオプラヤ河に決まっている)にも陽が落ち、裸電球が点る頃にはサンペン小路は人通りも絶え、暗く寂しく、かつ、どことなく物悲しい通りに変身した。

その暗がりのビルの谷間の路地にも人々の生活があり、夕餉(ゆうげ)の惣菜の匂いが辺りに漂って来た。向こうの暗闇の中に広がるあの路地裏のいわくありげな場所には、一体何が隠されているのだろうか。そんな秘密めいた場所も見え隠れしている。

遠く中国は雲南省の女性がだまされてタイに連れて来られ、チェンライ等タイ北部の街で売春を強要させられているとのニュースがある。

このヤワラートの街の何処かで雲南やその他ミャンマー、ラオス等から密入国して来た女性達が売春を強要させられていたとしても不思議ではない。何が起きてもおかしくないのが中華街なのだと思う。

しかし、バンコク生活が長く、ヤワラートをこよなく愛している某旅行社の社長のTさんに言わせれば、

「現在のヤワラートは、昔あった秘密の匂いが消え、健康的になりすぎてしまい、面白さが減少した」

と豪語して憚らない。

先般、鬼籍に入られた元日本人会会長の大峡一男さんは、一九八二年九月の「クルンテープ」誌に日中戦争後の日貨排斥運動が華やかなりし頃のヤワラートの様子を寄稿している。

その大峡さんの書かれた文章が載っている「クルンテープ」のバックナンバーを捲ると、その当時のヤワラートの様子が生き生きと伝わって来る(「クルンテープ」は偉い)。

以下、大峡さんの記述をそのまま掲載させていただくことにする。大峡さんは、日タイ関係に関する優れた洞察力の多くの文章を残しており、そのほんの一部のみを掲載させていただくことは、バランスに欠け、大峡さんに対し失礼に当たるかも知れないと考えたが、当時のヤワラートの社会風俗の様子を生き生きと映し出した文章は他に思い浮かばず、大峡さんの文章から当時のヤワラートの匂いを嗅ぎ取っていただければ有り難い。

私は上海に生活したせいもあり、中華街やヤワラートの雰囲気が好きで、その横丁や裏通りが気に入って楽しく遊んだ。

西舞台で中国映画(当時中国映画はすべて国語――北京語だった)を見ては、そこら付近の茶店などで一杯のんだ。慣れるに従って給仕の姑娘たちも愛嬌(あいきょう)をふりまいてくれる。

はじめの頃は先輩格の人から注意もされたり、また同僚達もついて来なかったが、次第にその良さ面白さがわかって、一緒にあとについて来るようになった。