子供へのルール編み込みの捉え直し

自分の意思決定・アクション選択を自分が意識的にコントロールできない、という反省レベルの考えを、親は理解していて、子供・幼児は、理解できない(理解させようとすると混乱するので)という前提で、親は子供にルールを編み込むとする。

その時、親は、子供に対し、どう対応することになるか。親は、子供に、ルールを指示する。なかなか子供はルールを守らない。

でも、親は、子供は意識的にはルール遵守をコントロールできないことを理解しているので、ルールを守れない事に対する不快が減ってイライラせずに、罰(不機嫌になるのも罰)は科さず、なぜ守る必要があるのか丁寧に説明のうえ「今度はちゃんと守ろうね」と言い、うまく守った時には「よくできたね」と褒めてあげる、と対応するのが自然だろう。

つまり、親は、あたかも日常レベルの考え(自分の意思決定・アクション選択を自分が意識的にコントロールできる)を信じていて、子供が自らの意思でルールを守ることができる、という編み込みを子供に行うが、一方、ルールを守れなかった時は、反省レベルの観点に基づき、罰は科さず、ルール遵守がなぜ必要か理由を説明する、という対応である。

このように、親は反省レベル、子供は日常レベルの考えで、ルールの編み込みを行うことで、両方が日常レベルの考えを持っている場合とほぼ同様の編み込み強化ができることになる。

これまで見てきたように、自分の意思決定・アクション選択を自分が意識的にコントロールできているという日常レベルの考え(実は間違い)と、そうでないという反省レベルの考え(本当はこっち)は、適用する課題に応じて使い分けるのが合理的だ。

脱線するが、反省レベルの考えを子供に開示するのは、いつ頃が良いだろう。理解力から考えて、小学校高学年くらいか。

サンタクロースの正体や、赤ちゃん誕生の経緯がわかったりするのよりは、動揺は少ないかも。

決定論とモチベーション

ところで、自分の意思決定・アクション選択を自分が意識的にコントロールできない、という反省レベルの考えは、一種の決定論とも言える。

つまり、意思決定は、編み込まれてきた物事と、日々起こる何かや誰かとの出会い、たまたまの思いつき、といった偶然・運に依存していて、自分ではコントロールできない。

そうすると「自分で意思決定をコントロールできないの? それじゃ、操り人形みたいでモチベーションが湧かないよ。」と無力感に襲われる人がいるかもしれない。が、ここには誤解がある。

反省レベルの考えを理解したからといって、それまでにやってきた日常レベルの考えに基づく日々の意思決定をしないで良い、ということにはならない。