高麗の建国と滅亡:高麗による半島統一

『朝鮮の歴史・新版』の「第四章高麗の国家と社会」の「第一節高麗の成立と展開」には次の記述があります。

[高麗の始祖王建ワンゴンは、八七七年、後の開城ケソンにあたる松岳ソンアク郡の豪族の子として生まれ、長じて弓裔クンイェの武将となった。

九一八年、泰封テボン国の弓裔にとってかわった王建は、高句麗コグリョの後継者をめざして国号を高麗コリョとさだめ、翌年には開城を都とした。高麗建国のはじめ、朝鮮半島の西南部には甄萱キョンフォンの率いる後百済ブベクチェがあり、東南部には旧来の新羅シルラがあった。

衰微した新羅が九三五年に国をあげて高麗に帰属すると、翌年高麗は、うちわもめで弱体化した後百済を武力でうちまかし、建国後一八年目にしていわゆる後三国を統一した。]

高麗による後百済制圧の様子を『韓国の中学校歴史教科書』の93~94ページの「後三国の統一」の項には次のように明確に記されています。

【一方、後百済では王位継承をめぐり内紛が起きた。甄萱の長男神剣シンゴムが甄萱を金山寺クムサンサに閉じ込め王位を奪うと、甄萱は脱出して高麗に入った。このような状況を利用して高麗は神剣の後百済軍を撃破し、ついに後三国を統一した(936)】

このようにして、高麗は後百済を武力により併合して朝鮮半島を統一しました。

高麗の人は、高句麗族・鮮卑族・夫余族・沃沮族・濊貊族・靺鞨族・渤海族・女真族などで構成され、後百済の馬韓族とは異なります。

これまで、後百済は高句麗とは一度も一緒になったことがなく、高句麗とは完全に別種族であり別国家として存在していました。

ですからこの高麗による統一は、異なる種族の国の併合でした。高麗の成立は三重の併合の上に成り立っています。最初は馬韓の一つの伯済国が周辺の国を次々と併合して百済を建国し、次はその百済を唐の力を借りた新羅が併合しました。

新羅が衰えて後百済と高麗が建国され、高麗は戦わずに新羅を吸収し、後百済を武力で併合しました。ここまでに三重の国家の併合の上に高麗による朝鮮半島統一がなされています。