それは唯それだけですばらしい。朝起きて庭を見ると、いつもいろいろな小鳥たちの家族が八重桜の木の枝から石臼の厚い縁の上に我先にと降りてくる。

そしてその丸い縁の上に並んで、そこまでいっぱいに張っている水を囀りながら代わる代わる飲んでいる。自由そのままに生きている小鳥たち、そして物言わぬ草木までが、記憶の中にある子供の頃の見慣れた風景や自然を、すっかり取りもどしてくれている。

一日の日差しの移り変わりとともに、あるいは時折、小雨が降った後の陽の光があたるときなど、厚みのある石臼のまわりを囲んでいるいくつかの形の異なる庭石でさえ、それぞれの違った彫のある面が多彩な表情を見せて、その一つひとつが抽象の世界で互いに何かを主張し合っているかのようだ。

そして、それらは私の想像力に新しい光をあて、その度に移り変わる表情が私の美意識をくすぐる。­

たまたま私はここで夫と共に生きてきたけれど、ここでは自分たちを取り巻いているすべてが常に変わらぬ自然であり、その優しい懐の中で、いつも私たちの命を見守ってくれているかのようだ。そして私たち自身もまた、自然と一つになりそこに命を感じる。

それ故に、私たちはこれからもずっとこの自然の中で共に幸せな人生を送れること、またこの美しい自然の姿が変わることなく、常に確かな生命の母胎として、すべての人に永遠に存在し続けることを願う。

そして、ここでもあの小さな花の、私たちのために遺してくれた確かな生へのメッセージが、再び私の心に甦ってくるのである。­

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『私の生きる意味』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。