貨幣経済の始まり

貨幣経済が始まりわずか一か月足らずで、笹見平の食糧事情はかなり改善された。

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買い入れた食料と備蓄、ようやく始まった畑の収穫をあわせ、なんとか全員に一日一食は回るようになった。イマイ村からの援助は続いていた。林が遠慮を申し出ると、ユヒトは

「長老の好意だから」

と継続を申し出た。長老は、貨幣を通じて各集落が仲良くなってきたことを嬉しく思っているようである。

しかし、いいことばかりではなかった。ある昼下がり、ユヒトは大きなシカが獲れたので、脚を一本お裾分けしようと、イニギ・スソノと共に笹見平にやってきた。

「オツカレサマー」

塀をくぐって声を上げる。が、何の反応も無い。それどころか人っ子一人、姿が見えない。柵内に引き込まれた小川にも、竪穴式住居にも、畑にも、人影がない。

みんなで狩りに行ったのだろうか。――まさか、そんなはずは。

足下を見ると、砂地のところにいつもより多めに足跡がついている。どの足跡もかなり大きい。ユヒトは訝しく思った。三人で手分けして敷地内を歩き回ること数分、ユヒトが畑の裏を見回っていると、遠くでイニギとスソノが声を上げた。

行ってみると、二人は観光案内所の角にいた。ユヒトは二人が指し示す窓から建物の中を見た。

「あっ!」

中には笹見平の若者たちが濡れ雀のように寄り集まり、青い顔をして歯をガチガチ打ち鳴らしていた。女子らは目を泣き腫らし、砂で汚れた頬に涙の筋を描いている。

はしの方で林と盛江が目を白黒させている。ユヒトが手を振ると、林はすぐに気付き、立ち上がって入口へ回った。他の若者たちも動き出した。みな恐怖にかられた目をきょろきょろさせ、あたりを伺っている。

「何があったんだい?」

ユヒトは尋ねた。林はすっかり怯えて、

「貨幣は失敗だったよ……ここに来る途中、誰かに会わなかった?」

「いや、誰にも」

ユヒトは足跡を思い出し

「もしかして誰か来たの?」

林は唾を飲んでうなずいた。

「初めて見る縄文人が一〇人ばかり、大きな棒を振り回し、大声を上げてやってきた。ひとり、顔を毛皮でぐるぐる巻きにしたヤツが前に出てきて、『カヘーをよこせ』と」

「本当かい?」

ユヒトは目を丸くした。

「びっくりしたよ。ぼくはみんなを観光案内所に避難させて、盛江君と二人で取引に応じたんだ。本当は岩崎君や砂川君にもいてほしかったけど、あいにく狩りに出ていて。相手は基本的に話し合いをするつもりはないようだった。『カヘーを寄こせ』の一点張り。今にも殴りかかってきそうだったから、言われた通り袋に貨幣を詰めて渡したんだ」