「じつはそれも謎の一つです。ある伝記本によれば、彼には何人もの子供がいたことになっています。おそらくそれはほんとうのことだと思います。しかし『日本書紀』には、彼の子は山背大兄しか出てきません。その一族が滅亡してしまったために、太子の血筋がそこで絶えてしまったのです。

大鳥さんがいわれたように、それもおかしな話ですが、正史のストーリーは、そうなっているのです。すると大きな問題が出てきます。もし厩戸がほんとうは天皇だったとすれば、山背大兄一族が滅亡したために天皇の血筋が途絶えてしまったということになりますね。これは大問題です」

「大問題って、なにがですか」

まゆみがぽかんとした顔で聞いた。

「そうか……そういうことなんですね」

沙也香は小さくうなずいた。

「いい? まゆみさん。天皇家はさ、ずっと昔から日本国を統治してきた。そしてその天皇の血筋が、いまの天皇家までつながっているということになっているわけよ。ところが厩戸皇子がほんとうは天皇だったとすれば、その血筋は途絶えているのだから、いまの天皇家の血筋はどうなっているんだ、ということになるじゃない」

「そういうことです。初代天皇の神武天皇からいまの天皇までの血筋がずっとつながっていることを、万世一系ばんせいいっけいといいますが、それが正しいということで明治政府が成立し、そのことを書いた『日本書紀』の記事は真実だという前提で、古代史学は成立してきました。

したがって、もし厩戸皇子がほんとうは天皇だったとすれば、それまでの学説の大前提が崩れてしまいます。だからぼくたちが学術的な根拠を挙げて、厩戸は当時の倭国大王だったと主張しても、ほとんどの学者はまったく認めようとしないのです」

「つまり現在の古代史学は、権威のある学者のご都合主義で成り立っているということですね」

沙也香は高槻夫人の言葉を思い出しながらいった。

「ぼくは、そこまで極端なことはいいませんがね」

磯部は苦笑いしている。

「でもそれに近いことが横行しているのは事実です。まあ、それはともかく、次の三経義疏の問題に移りましょうか」

というと、六番目の問題に話を変えた。