覚悟はしていたが美紀はそんな思いを胸に、焦りともどかしさを感じながら車を飛ばして病院に駆けつけたが死に目に合うことはできなかった。

しかし、ベッドに寝かされていた母の死に顔は痩せてはいたが微笑んでいるように安らかだった。美紀は、苦労を掛けた母が父を恨んだ夜叉のままではなくすべてを許し微笑みを湛えた菩薩と化して逝ったことに何か救われた思いがしたのだった。

美紀が母智子から店を引き継いで店を切り盛りすることで困ることは何もなかった。母と一緒に働いた十年ほどの間に、客のあしらい方や雇っているホステスたちの扱い方などすべて母から教わっていたからだ。しかし、安普請の建物は築後二十年以上が経過し潮風に晒されてあちこちに綻びが生じていた。

美紀は、母の仏事が一段落すると一階の店の部分だけを改修した。店の中のカウンターと天井からぶら下げた集魚ランプは弄らなかったが、壁紙の張り替えはいうに及ばずボックス席のテーブル、椅子はすべて取り換え、数も一セット増やした。それと旧式のカラオケ装置を最新式の通信カラオケのものと取り換えた。

それでも田舎の飲み屋でどことなく垢抜けはしなかったが、その分気取った感じがなく寛ぎやすい雰囲気があると客たちには評判だった。漁火を改修し、一人でスナックの経営に乗り出してからさらに十年ほどが経った。その年も志摩の観光地を彩る桜のライトアップの時期が終わり、海を渡って来る潮風も幾分冷たさが緩む季節を迎えた。

その日、美紀は朝食を済ませて喫茶店を開ける準備に掛かった。カウンターに置かれた卓上カレンダーには今日の日に丸印がつけられている。準備をしながら美紀はチラリと目でチェックを入れた。

毎年、美紀は年の暮にカレンダーを手に入れると真っ先に四月のある日に丸印をつけてから漁火の壁に掛けた。客がその印を目敏く見つけ、去年もついていたこの印は何だと煩く訊くようになった。印は母智子の命日のリマインダーとしてつけたものだったが、酒の席で辛気臭い命日の話も憚られると思い適当な説明で誤魔化した。