その本宿村の中心を東西に貫いているのが甲州街道であるが、整備当初は、府中宿(ふちゅうしゅく)の外れから南に向きを変えて立川段丘のハケ下の田んぼの中を通り、石田(いしだ)の渡し場から多摩川を渡って日野宿に抜けていた。

ハケ下の地は多摩川の氾濫原であり、浅川(あさかわ)が多摩川に合流する地点の下流辺りから大きく広がり、その幅は二十町から三十町ほどにもなるが、度重なる洪水のため江戸時代初期には街道の道筋を現在のハケ上に替え、本宿村に属する集落の大部分もハケ上に移転していた。

しかし、それから数十年経った後も、ハケ下の田んぼや雑木林の中には十数軒ほどの百姓家が点在し、集落を形成している。この一帯を本宿村字(あざ)大野郷(おおのごう)という。

集落を貫いていた旧甲州街道は、荒れ果て、田んぼの畦道となって行き交う人もなく、日本橋から八里の距離を示す本宿一里塚跡のみがひっそりと残っているだけとなった。

度々洪水を起こす多摩川は、南側の多摩丘陵に行く手を遮られ、山裾を右岸にして流れていた。

伊助(いすけ)は、ここ武州多摩郡本宿村字大野郷で二代続く百姓の三男坊として宝暦六(一七五六)年に生まれた。家は一里塚跡にほど近い河原地のほぼ真ん中辺りにあり、周りを田んぼと雑木林に囲まれていた。

伊助の祖父にあたる初代の次郎平(じろへい)は、同村の本百姓次郎右衛門(じろううえもん)の長男として生まれたが、十二歳のときに庭の柿の木から落ちて右足を骨折し、それ以来杖が必要になった。

いずれは家長として家を担わなければならない立場だったが、きつい農作業は無理と思われ、さらに五人組制による連帯責任など本百姓仲間の足手まといになることが懸念されたため、親は家督を次男に継がせ、次郎平を分家・独立させることにした。

時に正徳二(一七一二)年、次郎平二十五歳のことである。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『ゑにし繋ぐ道 多摩川ハケ下起返物語』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。