京城(seoul)

京城は市街の周囲を山に囲まれて南に漢江が流れる山河襟帯という、自然によって守られた要地として発展してきた朝鮮半島の古くからの王都でした。李氏朝鮮の祖李成桂(りせいけい:1335年~1408年)によって京城(当時は漢陽)を王都と定めたことから始まったといわれています。

李成桂は、中国の明に朝貢を行い韓国の王として認められたため、この際に造られた景福宮は、ちょうど漢江から出てきた龍が、自分たちの主である天(明の皇帝)に馳せ参じるように造られました。

これは古代中国においても、その影響下にあった朝鮮半島においても、皇帝=龍という考えがあったことからとされ、李王の王宮である景福宮は龍の頭であり、そこから漢江にからだが伸びていく形に見立てられていて、水辺に生息し天へと昇る伝説の龍と、大地のエネルギー龍脈の考えを持つ風水を取り入れて造られたものだったそうです。

そののち、城壁や門がいくつも造られたのですが、日本による韓国併合後は、近代都市に邪魔な城壁は取り壊され、南大門や東大門を残すのみとなっていました。ちょうど祖父母が京城に入った時期は、その南大門周囲も拡幅工事に当たり区画整理のもと、目抜き通りも形を大きく変えつつありました。

地図左上の景福宮敷地内に本府新築地とあるように、祖父母が京城に入った当時は朝鮮総督府新庁舎は建築中で、地図中央やや下の南山側に総督府庁舎は置かれていました。また朝鮮神宮も工事中のため朝鮮神社のみの表記になっています。地図左下の京城駅が祖父靖国が担当したものになります。

▲朝鮮鉄道旅行便覧(大正12年・1923年)より京城地図 (国立国会図書館ウェブサイトより)

工務事務所も総督府庁、駅や神宮工事に近い場所にありました。地図では見えませんが更に下に降ると漢江が流れています。この漢江のそばに大正時代に造られた朝鮮総督府新庁舎・朝鮮神宮・京城駅の3つの施設が大日本帝国が目指し、朝鮮総督府が掲げた基本理念「内鮮一体」の本来の意味を示すシンボルとなっていました。