帝都を手本とした近代化

祖父母が朝鮮半島の京城に入ったのは大正9年(1920年)8月のころだったようです。そのころ京城では近代都市へと生まれ変わる大規模な作業が進行していました。

これは「日韓併合」を経て、明治維新以降の江戸改め東京と呼ばれることになった帝都を中心とした目覚ましい文明開化を手本として、日本主導により、早期に朝鮮半島の民を日本人と等しい文明国人に仕立てるという明確なコンセプトのもと進行していたものでした。

▲朝鮮鉄道旅行便覧(大正12年・1923年)より京城市街 南大門通(国立国会図書館ウェブサイトより)

「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉でも端的に言い表せられる日本も朝鮮もそこに住む人もすべて平等にという明治天皇、大正天皇の大御心の実現と、もう一つ日本の安全保障上朝鮮半島が担う重要な役割のためでした。

そのため、政治闘争に明け暮れ、国家予算に乏しかった旧韓国時代の遅れを取り戻すべく、表の朝鮮総督府予算とは別に、当時の日本国民に伏せる形で巨額な開発資金を回していました。

当時を知る人の話によると

「満州鉄道経由でかなり入れていた」

すでに過去の話として、当時を知る人たちが戦後の引揚げ日本人の集まりで話していたものによると、同時期に日本軍が行っていたシベリア出兵を名目に軍事輸送上重要という形で、大正7年(1918年)から満州鉄道に、朝鮮の鉄道工事などをしばらくの間委託していましたが、そうやって費用を一部満州鉄道経由で朝鮮に入れて予算の流れをみえにくくして、まだまだ開発の遅れていた日本本土の地方の不満や、野党勢力の「なぜ朝鮮半島を優遇するのか」との批判が国に向いてくるのを避けていたのです。

祖父靖国も、そのような経緯から満州鉄道に合流しての京城入りになりました。