近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

三浦環の音楽学校時代~奏楽堂のこと

奏楽堂の内部空間は天井に丸棒状の太い繋ぎ梁が七本浮かんで、見る人に強い緊迫感と印象を与える。

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ホールは梁行一六メートル、桁行二六メートル、客席は長椅子が置かれたが後に三百八十席の固定席となり、小規模ではあるが近代的な音響効果がその設計によって得られた。(※25)

昭和三年には徳川頼貞(一八九二~一九五四)の寄贈によりパイプオルガンが設置されるなど、教育の域を脱して本格的な演奏会場として特に西洋音楽の普及発展のために、奏楽堂の果した役割は高く評価された。

夏目漱石(一八六七~一九一六)は小説『野分』に奏楽堂での演奏会風景を描いている。漱石は『野分』の構想中に、寺田寅彦(一八七八~一九三五)と奏楽堂で演奏会を聴いており、文中にそれが生かされている。(※26)

東京音楽学校は男女共学のことでもあり、特に風紀問題についてはとかく世間の風当たりが強く、諸般の事情をふまえて明治三十三年度には新しく「生徒心得」なるものを規定したがそのいくつかを次に掲げる。

一、生徒は課業又は特に令せられたるものの外、受持教員の許可なき楽曲を自修すべからず。
一、男生徒と女生徒との間に於ては校の内外何れの場所を問はず文書の往復談話等をなすべからず。若し止むを得ざる事故ある時は生徒掛の許可を受くべし。
一、教科書参考書の外雑誌稗史小説の類を携帯すべからず。
一、女生徒は登校の際直に通信簿を生徒掛に差出すべし。
一、女生徒は降校の際生徒掛より通信簿を請取り帰宅の後監督者の点検を受くべし。

教育方針が万事生徒を監督、取締る方針であったので、生徒の昇降口さえも校舎の両側に分け、女生徒の和室は事務室に近づけ、中央廊下をはさんだ反対側に女生徒取締室を置いて監督した。男生徒和室の両側には男子教員室と取調室を置き、教員室も男子教員は一階、女子教員は二階と分け、外国教師の和室は二階隅の一室を充てた。(※27)

男生徒と女生徒が話をする必要がある時は生徒取調室で生徒監の立会いのもとに話すのであるから親密な話など出来ようもなかった。(※28)