生涯と事蹟

■師弟関係にあった瀧廉太郎との恋愛の真相とは?

環は大正三年(一九一四)に渡欧して、昭和十年(一九三五)に帰国するまで実に二十年間海外での演奏活動が続いたのであり、その間大正十一年、昭和七年の二回短期間日本に帰国しているが帰国の都度海外での名声とはうらはらに世俗的なゴシップの輪が拡がったのは確かであった。

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自転車美人以来、その一挙手一投足が話題になった人で新聞、雑誌等マスコミの取材対象となった記事は数百にのぼる。

帰国の都度、伝記出版の話が爼上にのったが、滞在期間が短く帰国演奏会の日程に忙殺されるなどして回想的な談話の発表にとどまった。

戦争が激化し、体調が衰えはじめた時期に、経済事情も手伝って環は自伝出版を強く意識し、音楽評論家、吉本明光に口述筆記を依頼した。環の没後一周忌に関係者に配布された限定版の『お蝶夫人─三浦環遺稿─』がそれである。

この版権の所属について遺産相続人と吉本明光との間に悶着のあった経緯を聞いている。(※32)

この遺稿中で語られた瀧廉太郎の逸話について吉本明光は次のように記している。(※33)

三浦環と瀧廉太郎の伝記編纂者が現に真実の究明に悩まされている問題が一つある。師弟の関係にあったこの両者の恋愛問題である。瀧廉太郎の周囲にいた人達は異口同音にその恋愛について否定する。にも拘らず三浦環は生前その事実を肯定していた。当人が肯定するからにはそれは事実であったに違いない。

しかしそれは想い想はれつの相思相愛ではなく瀧廉太郎の片想いに終ったと云うのである。わが国近代音楽史上に特筆される人物としてのこの二人の出会の場面は今後とも話題になるであろう。

音楽学校においてはピアノの個人レッスンの機会は多いのであり、官費留学を目前に控え、多感で音楽の天分を備えた瀧が環の持てる才能を見出し音楽を通じて師弟愛を温め合うことは十分ありうることでもあり、またあったとしても可笑しくはない。これは決して瀧の一方的な感情ではなく、環の師に対する敬愛の中に瀧を慕う感情が秘められている筈でもある。