エピソード

■瀧廉太郎

明治三十四年(一九○一)七月六日(土)東京音楽学校の第十四回卒業証書授与式が行われ環は予科を終了した。予科終了生二十二人のうち十二人が本科に、七人が甲種師範科に、三人が選科に進んだ。

予科在学中は環は瀧廉太郎(一八七九~一九○三)からピアノを学んだが瀧は環より五歳年上で当時二十二歳の前途有望な青年教師であった。

研究科二年在学中にピアノ授業を嘱託され、環が予科の時は授業補助の職名で手当として一ヶ月拾円を支給されていた。既にピアノ及び作曲研究のため満三ヶ年のドイツ留学が決まっており、その準備を兼ねての授業であった。

この期間に東京音楽学校の編纂による『中学唱歌』が発行されたがその中に瀧の作品が三曲選ばれている。(※29)

曲は一般公募で当選曲一曲について賞金は五円であったから「荒城の月」「豊太閤」「箱根八里」に対して瀧は計十五円を手にしたわけである。

彼は早速友人達に汁粉を御馳走し、下宿の瀧大吉(従兄)の妻民子に木の盥を贈り、大分の母昌子に丸髷の髱を、妹に白牡丹の髪飾りを送った。(※30)

瀧の人柄がしのばれる話である。環は予科在学中にその瀧廉太郎から求婚されてびっくりしたという。(※31)

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。