「あー……」

びくり、と身がまえる。

「心配せずともよい。わしは宦官だ。そなたが案じているようなことは、できない」

害意はないとばかりに、両手をひろげてみせると、相手は、乱れた蓬髪(ほうはつ)のなかから、ようやく眸(ひとみ)をのぞかせた。美しい二重まぶたの下の、まっすぐな光を見て、私は思わず、たじろいだ。

乱頭粗服(らんとうそふく)なれども天姿(てんし)絶す。なにものの老媼(ろうおう)ぞ国色(こくしょく)を生むいにしえの西施(シーシ)や、王昭君(ワンジャオチン)も、少女の時分は、かくの如くであったか。

「私は王暢(ワンチャン)、字(あざな)は叙達(シュター)だ。そなた、名はなんという」
「………」

黙してこたえぬまま、こちらのようすを凝(じっ)と見ている。

「わしは、これから、塒(ねぐら)にもどらねばならん。そなたは、わしについて来てもよいし、当てがあるのなら、そこへ行ってもよい。好きにするがいい」
「………」
「どこへ行こうが、そなたの勝手だ。親は心配しているだろうから、親元へ帰るのが、いちばんよかろう。路銀(ろぎん)はあるのか?」

それでも、口をひらこうとしない。しばらく娘の顔をみていたが、やはり何もしゃべろうとしないので、なすすべはなかった。きびすを返して、その場を立ち去った。

嗚呼(ああ)、月給取りになってよろこんでいたのもつかの間、放浪時代の無一文にもどってしまった。人情にほだされたとはいえ、こんなにはやばやと、志をまげることになるとは!

私は、悶着に巻き込まれる星のもとに生まれついているのか、それとも、ただ単に意志が弱いのか――われながら、ほとほと愛想がつきた。いぜん曇明(タンミン)師からきいた語を思い出した――本来無物(ほんらいむいちぶつ)。

人は、ほんらい、なにももたずに生まれて来て、なにももってゆけないまま死ぬのだ。人間ほんらいの姿にもどっただけだ。命をとられたわけではない。

銀子は、また、貯めればいいではないか――少なくとも、あの少女は、自由になれたのだ。妹が連れ去られたときは、どうすることもできなかったけれども、今度は、おのれの力でたすけ出せたではないか。功徳(くどく)を積んだのだ。そう思い込もうとした。

しかし、心というやつは、ほかならぬ私のものであるはずなのに、時として、どうにも制御がきかなくなる、やっかいな難物でもあった。

身につけていた銀子がなくなって身軽になっただけ、心は、ぽっかりと風穴があいたようだった。功徳を積めたという、サバサバした一種の爽快さと、空虚な喪失感。二つの感情の板ばさみにさいなまれながら、重い足をはこんだ。