彼は、くわえたマルボロが燃え尽きようとする少し手前で足元に落とし、まだ赤いそれを踏み出した右側のスニーカーでねじり消して、そのまま歩き出した。彼が本来向かうはずの方向とは反対に、比較的歩きやすい方向へと歩き出した。

時刻は午後8時を少し過ぎたところ。彼は、六本木通りを渋谷方面に向かって歩いていく、30 秒か40秒、距離にして50メートルあるかないか、その場所にWAFEがある。

ここは、インポートレコードを専門に扱うショップだ。彼は、厚い1枚ガラスのドアを開けて店の中へ入っていく。

DJである彼は、なじみのレコードショップへ毎度毎度、飽きるほど足を運ぶ。ニューリリースが並んでいればそれを買ってくる。

これも、DJである彼の仕事。彼は、WAFEで何枚かのニューリリース・レコードをチョイスしてから、店の外へでてみた。

時間にして、約30分くらい経っているはずなのに、歩道にはさっきよりも人の数が増えていた。確実に増えていた。

どうやら彼の思惑は、おもいっきりはずれたみたい……案の定。「ふぅー」と、小さめのため息を1つはき、足の指先に少しだけ力を込めた。

たった数メートル先も見えないほどに折り重なるこの街の人波に向かって、彼は歩き始めた。レコードショップを出て右へ、彼はふたたび来た道をもどる。歩き出すと、すぐ右手に麻布警察署が見える。

彼はその建物にチラッと横目で視線を送り、さらに人深い場所へと進んでいく。正面に大きな交差点が見える。角には、待ち合わせ場所の定番アモンドがある。

その先、右手に折れ下っていく坂が、芋洗い坂。このポイントが、六本木1番の人口密度過度状態地点だ。

マジでここらへんは、人が歩いてもいい場所だとは思えないほど、動きを止めた人間たちで歩道は埋め尽くされている。その狭いスペースには、いったいいくつの障害物があるのか、見当すらつかないような人だかりに対して、わずかな隙間を見つけ出し、瞬時にそこへ自分の体をすべり込ませる。

3歩先の状況を把握しながら、普段よりもずっと速いペースで歩く、左右に体を瞬間移動させ、人をかわしながら目的の場所へと進んでいく。毎度のことながら思う。

『こんなに賑わう場所なのに、歩道のキャパシティがお粗末すぎるよ、この街は』

人で澱みまくってるアモンドの正面は、六本木交差点。六本木通りに交わる2車線道路は、赤坂御所から飯倉坂へ向かう外苑東通り。彼は、その交差点で飯倉方向へと向きをかえる。

『ここらへんの温度が、この街で一番高いだろうな』と思いながら、交差点付近を抜けると少しは歩道らしく、人の澱みは徐々に流れ出したように感じられる。でもそれは止まっていたものが、ようやく動き出したというだけで、あきらかに他とは違うスピードで歩いている彼にとって、そのくらいの状況変化は変わってないのと、同じ。

さらに、ここからは人波とは違った新しい障害物が、行く手に待ち受けていることも彼は承知している。アモンドの角を曲がってからもなお、彼の歩行の邪魔をする障害物。

それは、アクセサリーを売る露天の店先。歩道であるはずのスペースに店を広げ、歩道をさらに狭くして、彼の歩行をより困難なものにする状況を、つくり出してくれている。

おまけに、六本木名物『いそべ焼き』を焼く、軽トラックも彼にとってはりっぱな障害物。移動を目的として歩道を使う者にとって非常に迷惑な状況が、ここに出現しているのだ。

しかし、状況はこんなふうなのだが本人にとっては、けっこう楽しい環境らしい。人がゴチャゴチャして歩きづらい歩道で、障害物をよけながら早足で歩く、そのことに対して彼は、楽しさを感じている。

苦にもなっていないらしい。やがて、視界の右側にロイビルが、入ってくる。

ロイビルの正面には、外苑東通りをまたぐ横断歩道がある。それを渡って直進する路地の左角が『六本木寿し』。反対側の角には『ハンバーガーズ』がある。

二つの店を、隔てている路地。それは、30メートルほどで突き当たりになる。そのさきは、崖。下は墓地。

彼は、崖の突き当たりを右へターンする。先の短い行き止まり、路地の左右には、いくつか、見かけだけ新しくて実は古いビルが立ち並んでいる。左側に立ち並ぶビルの中に、『My Points』と、英字筆記体に曲げられたネオン管が、紫色の重たい光を放っている。

紫色の霧の下には、一枚ガラスの大きなドアがはまっている。彼は、それを右手でおし開け、店の中へ入っていった。ここが彼の目的の場所。

「おはようございます」店のエントランスで、彼に声をかけたのはDisco My Points総括マネージャーの井村。「おはよっス」彼は、挨拶を返しながら自分の仕事場であるダンスフロアーに向かう。

店に着いたとき、時計の針は8時30分をちょっとだけ過ぎていた。普通なら少なくとも、今の時間より1時間以上前についているはずなのだが。