第4章 合目的的なる世界

第1項 合目的

2 目的とプロセスの離婚

思えば、人工知能の発達、実用化段階に至る前から、我々は“世界の合目的化”への長い長い道のりを、一途に歩んできた。

日本を正統な意味(或いは、レベル)での近代国家と呼びうるかどうかには議論もあるが、 近代とは、「神は死んだ」(フリードリヒ・ニーチェ、ドイツ、1844~1900)以後の、人間の合理主義による自治と成長を一徹(いってつ)に信じてきた時代と言えるだろう。

もっとも、粗野にして煩雑で、気まぐれで、習慣に惰性的で、対象の客観評価に生理的嫌悪感が先立つ、要するに物事が一義的にスッキリとならない人間の本来的(前近代的)性格は根強く、人が自らの意思により自らを律したところで、世界は未だ混沌ともしていた。

ほんの20~30年前には、例えば「喫茶店」なら、“珈琲と紅茶と軽食を楽しみながら一時寛(くつろ)げる喫茶空間を提供するお店”というくらいの弛(ゆる)い括(くく)りの中で、目的を曖昧に多様に含んだ、集客は個々の店舗のマスターや従業員の人柄に大きく依拠した様な、そんなお店がたくさんあった(漫画『タッチ』の“南風”的空間だ)。

しかし、人工知能の発達より前にして、人智と手作業によるシステムを高精度化し、仕入・搬送・人件費等をいちから洗練し、目的を“誰もが駅近で安く喫茶できる”という一点に絞り、多店舗展開する外来種的経営が屹然(きつぜん)・颯爽(さっそう)と現れ、怒濤流(どとうりゅう)の勢いに繁殖し、それらは一掃された(絶滅ではないがメッキリ減った)。

競合に敗れ立ち退いた喫茶店の跡には、ドラッグ・ストアやコンビニエンス・ストアや整骨院が、雨後の筍(たけのこ)の様に建った。

「目的を立て曖昧により生じるムダを排除する」という流れは、我々の意識とテクノロジー革新に於いて、“鶏と卵”のように前後不明ながらも励まし合い、進んできた。

バブルは弾け、総中流社会の神話も消失し、生き残り戦略がシビアに必要となる。伴い、曖昧さを許さない風潮は職業人に於いて徐徐に意識レベルで確立された。消費者も歓迎的に追認した。物事はしっかりやらなければならない。空間を“喫煙・禁煙・分煙”と明確化するように、物事を大人の態度で切り分ける。或いは、部分的に存し並立していたものを1つの目的の内に統合する。

そんな頃、麻疹(はしか)が再燃するように、異種格闘技が流行った。

(ところで、『電王戦シリーズ』をもって、異種格闘技だと表現している人もいた。私は思うに、棋士対人工知能は異種格闘技ではない。格闘技は人と人が戦うものだし、人工知能を作ったプログラマーと棋士の戦いと見て“人対人の構図”に落とし込むなら、プログラマーの戦いはイベント開催の数カ月前の期日までに人工知能を作り上げることで、競技当日はすることがなく、パフォーマンスとパフォーマンスの交錯は無い(相対していない)から見世物としては成立していない。これはこの章では余談であり、後の章で詳述したい。)

空前の異種格闘技ブーム。

年末には、紅白歌合戦とクラシック・オペラとお笑い芸人集合を除く全てのチャンネルで、 様々な格闘技の一流選手が一堂に会し戦う番組がこぞって流された。

格闘技は種々の競技の制約を越えて融合され、人と人の壊しあいの見世物の様な様相を帯びる。格闘技界は、さながらゲームの中の『ストリートファイター2』の様な世界になっていた。私はボクサーが蹴られるのを見るのが何よりイヤだった。

「強いのは誰だ !? 」の強さとは、“人を倒す(壊す)という目的を最もよく果たせる者は誰か”という視点に単純化された。

スポーツに於いては“制約の守り方”を、芸術にあっては“制約の超え(破り)方”を、魅せるところに面白さがある(将棋にはこの両面が同時にある)。

例えば、相撲なら、ダメージはなくても掌や膝を土俵に突いてしまえば負けだし、ボクシングで、パンチを打つ流れでついでに頭部も当たり効率よく敵の視界を奪うことに成功したとしても、それは重大な反則行為だ。減量という厳しい制約を守り、ボクサーが鍛え上げた身体をリングの上に晒すとき、ファンはその搾られた、しかし精気に充ちた、選手の肉体と表情に試合の始まる前から恍惚(こうこつ)ともする。

が、異種格闘技ブームの嵐の最中(さなか)にあっては、ボクサーが「我々は二の拳で同じウェイト(階級は競技者の体重によって分けられる)の人間と闘う者だ」と言った所で、それは敗北主義と見做(みな)されるか、闘いから逃げたと捉えられる(多くのボクサーがリングに上がり、軸足の膝を蹴られ、敗けた)。

「最強はどちらだ? どちらが強いんだ? 今宵、あなたは、我々は歴史の証人になる! 間もなくゴングです!」

人々は、目的に課せられた制約を守るプロセスよりも、人が人を倒すという目的が見事に果たされ、明快な結論が出る瞬間に立ち会う事を望んだ(2010年頃の話だ)。

プロセスに於ける制約の遵守に表される節度に畏敬の念は払われず、その節度は目的に結び付かない限りは尊厳も認められない。

“目的とプロセスの離婚”。

格闘技界に流行(はや)り病(やまい)の様に見られたこの事象は、我々の意識の在り方のハッキリとした変化を象徴的に現すものだと私は考える。

「結果が全てだ。」

と、プロが言う。そのプロにアマチュアが憧れる。

要するに、我々の意識も、事象も、目的にフォーカスする事に世界は大きく舵(かじ)を切った。

そして、我々が目指してきた合目的的な世界を完成させるモノとして、遂に、人工知能は現れる。

実現される、合目的的な世界。

それは、人間の、合理主義の化身による、誰の為の世界なのだろうか。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。