龍野・  圓光寺

このような状況を見て、率子の叔父である正蓮庵(しょうれんあん)の道林坊(どうりんぼう)(平田四郎左衛門高信(ひらたしろうざえもんたかのぶ))が、正蓮庵で弁之助を預かり養育をすることになった。

正蓮庵は東の船越山への道筋にあり、庵には行基作と伝わる阿弥陀如来像が安置されていた。道林坊が学問を教え、その弟の平田長九郎が武芸を教えた。

弁之助は、庵の小僧として朝の勤行の経を読み、庵の側の小さな庵川で水練をし、庵の背後に控える険しい行者山(ぎょうじゃざん)の山中を走り回り、大木相手に木刀を振るって身体を鍛えた。まさに朝鍛夕練(ちょうたんせきれん)の日々を過ごした。

いつしか弁之助は十三歳となっていた。平福の年上の子たちとの間でも無敵となった弁之助は、己の腕を試す機会を求めていた。ある日、庵で手習いをしているとき、作用川沿いの因幡街道脇に高札が立ったと聞いた。金倉橋の近くに行ってみると、次のような高札が立てられていた。

『某日の本に並びなき兵法者也 いかなる者であろうと手合わせいたすべし……新当流免許皆伝有馬喜兵衛』

弁之助は、『日の本に並びなき……』といったあたりを墨で塗り潰し、高札に次のように書き加えた。

『明日 お相手いたす 正蓮庵 新免弁之助』

何刻か後、喜兵衛の使いの者が正蓮庵を訪れたため、正蓮庵では大騒ぎとなった。道林坊は驚き慌て、使いの者とともに喜兵衛の宿へと急ぎ、子どものした悪戯(いたずら)なので何卒ご容赦を願いたいと平謝りに謝罪した。これに対して喜兵衛は、次のように申し述べた。

「明日、所定の刻限にその童(わっぱ)を連れて参れ。その上で皆の前で謝るようにいたすが良かろう」

当日の朝、金倉橋の河原には、杭が打たれ縄が張り巡らされていた。その中が決闘の場となっていた。喜兵衛の名が記された旗が風に翻っており、その横には床几にでんと腰かけた喜兵衛がいた。

道林坊が刻限よりも遅れて現れたのを見て、怒りで顔を朱に染めて立ち上がった喜兵衛が怒鳴った。