壱の章 臣従

小田原陣

「大納言[家康]殿も云われるように、今度ぁ許したるが二度目はにゃあぞ。しかし黒川城を勝手に乗っ取ったのは許せんで会津は没収だわ。ほんだけど、これまでの米沢の本領は許したるわ」

こうして義宣が訴え出た政宗の暴挙は秀吉に取り上げられ会津は没収となった。

このあと、秀吉は家康と共に石垣山から小田原城に向かって連れションしながら江戸及び関八州を家康に与える約束をしたといわれている。

それと同時に豊臣政権の中では秀吉に次ぐ地位である内大臣の織田信雄に家康の旧領である五カ国を与えようとしたが信雄は今まで通り伊勢、尾張の領有を望んだため秀吉の逆鱗に触れ伊勢、尾張とも没収され下野国烏山に流罪となり、その監督を佐竹に命じた。この時、信雄は家臣を伴うことを許されず小者一名が従っただけであった。

信雄は剃髪し常真と号し、烏山から羽州秋田、伊予と配流されたが家康の仲介で許され、お伽(とぎ)衆として一万八千石で大和国内に復帰した。改易されてから二年後の文禄の唐入の時であった。

小田原城では北条方の支城が次々と陥落し籠城兵に厭戦気分が蔓延し始め段々統制が乱れてきた。その上、四月に皆川広照が逃亡したのに続き六月初めには松田憲秀らが秀吉に内通し敵兵を城内に引き入れようとしたため、ますます戦意を喪失し重臣たちの一部には和議や単独講和を唱える者が相次ぎ、最早これ以上籠城に耐えられなくなっていた。

六月二十九日に至って、とどめの一刺しのような石垣山からの一夜城の出現には、

「かの関白は天狗か神か、かように一夜のうちに見事な屋形出来るぞや」

と北条方の驚きは尋常ではなかった。

敗北を悟った北条氏直は滝川雄利と黒田官兵衛孝高を頼り氏直自身の命と父氏政をはじめ城内の将兵らの命と引き換えることを条件に降伏を申し出たが秀吉は将兵らの命を助ける条件は許した。しかし氏政、氏照兄弟には責任を取って切腹を命じ氏直は七月五日に城を辞した。