壱の章 臣従

小田原陣

九日から水攻めの堤普請は実行に移された。従軍している兵はもとより近在の農民を昼は一人に付き米一升と銭六十文、夜は米一升と銭百文で徴用した。近郷の衆はたちまち集まり昼夜を問わず黙々と堤普請に精を出した。

この高い手当が噂となり人足は近郷に限らず、さらに遠くからも集まり数万人の規模に膨れ上がった。ついには忍城内から隠れ道を使って工事に加わり米と賃金をもらって城内に戻ってゆく輩も現れた。

そのことに気付いた奉行の正家は三成に取り締まるように進言した。

「城から抜け出てきて普請に加わり米と銭を城内に持ち込んでいる者がおるそうじゃ。取締りを強化し城内の者であれば切り捨てるべきであろう」

「いや、堤の完成が先である。人足を切り捨てればほかの人足が怖がって逃げ出すだけであろう。そうなれば堤の完成が遅れ機を逸してしまう。それに金と米はいくらでもある。捨ておけ」

と言って三成は全く意に介さなかった。

だが、それがのちに三成の考えも及ばないことを引き起こすことになる。

のべ数十万人に及ぶ突貫工事によって僅か七日間で出来上がった堤は丸墓山を中心にして南北七里[約二十八キロメートル]ほどもある半円型で忍城をほぼ半周していた。利根川と荒川から勢いよく流れ込んだ水は民家を呑み込み、田畑を浸したが肝心の忍城は水の上に浮いている。堤の上でその様子を見物していた三成方の武将たちが「あれは浮城か」と言ったほどである。

忍城は一見、水田や深田に囲まれているだけのように見える平城であるが互いに高低差を考えて築城されていた。

城への浸水はなく床板一枚濡らすことはなかったが、これで城への補給路は断った。あとは城内の者が戦意を喪失して降参してくるのを待つだけのはずであった。ところが、その二日後、未明から降り始めた雨は午後になるとその勢いをさらに強め雷(いかずち)と共に土砂降りとなった。利根川と荒川から流れ込む水量はますます増え強さを増し濁流となって堤に襲いかかった。