第一章 十二支縁起の新解釈

新解釈による十二支縁起の流れ

 

凡夫の理解する十二支縁起の流れは、信じられないかもしれませんが、従来の流れとは真逆であります。無明から老死の苦、そして生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識、行と続き、行まで行ったら、また無明へと続いていく流れであります。

車の車輪がクルクル回る(輪廻する)ように、老死の苦、生の苦が無明によって再び繰り返され回り続ける流れであります。つまり十二支縁起の円環が繰り返し回り続ける流れであります。

この流れだと、苦の根源が無明にあることに矛盾しません。もちろんその流れを説明するための一つひとつの言葉の意味は、従来のものとは異なってきます。それは僕自身が納得するための解釈であり、その解釈が仏教の歴史や言葉の意味において可能なものかどうかさえ正直自信はありません。

ただ、この流れに沿って理解すれば、現実世界における苦の繰り返しを説明することが可能になると思われます。さしたる根拠はないのであります(僕自身が納得できる論理を展開しているだけかもしれません)。それゆえ僕の解釈もある意味こじつけととらえられても仕方ないと考えています。

ただそれが従来の説明よりも少し分かりやすくなっていると思われるだけであります。

十二支縁起が誤解される原因の一つに、「サンユッタ・ニカーヤ 12、20」の「縁」の中でゴータマ・ブッダが説いたとされる次の言葉があります。

 『{生まれること}によって老死がある。』

という言葉は、普通「人が生まれて老いて死ぬ」という常識的な関係を述べたと思うかもしれません。

しかし、十二支縁起は理解することが困難で、常識の流れに逆らうとあるように、ゴータマ・ブッダが十二支縁起の説明において常識的なことを述べたとは考えにくいのであります。

さらに言えば、十二支縁起は心理法則であります。ここでは、何が「生まれること」なのかはっきりしませんが、心に何かが「生まれること」によって「老死の苦」が起こるということを述べたと思われます。その何かは、十二支縁起において、苦の根源であるとされる無明(無知、迷い)のことだと考えられます。             

この「無知」や「迷い」とは、自我というものは実在するものではない(無我)ということを知らず、自我(自分)が実在すると錯覚していることを意味します。つまり、ゴータマ・ブッダは、心の中に「自我という錯覚」が「生まれること」によって「老死の苦」が起こるということを語ったものと思われます。