第3章 私のことと助産師になるまで

男尊女卑から看護短大へ

実は、看護の大学を受験したことは両親には秘密でした。合格したことは、本人は嬉しかったのですが、両親には「お前を学校に行かせるお金がない、今二人目の兄が大学に行っているし弟も行く、お前は女だから大学に行く必要はない」と言われて、私は路頭に迷うことになりました。

それなら東京のどこかの会社に就職し、夜学でもいいから大学に行きたいと思い、ある銀行の就職試験を受けました。しかし、その就職試験も落ちました。後は合格した大学に行くことしか道はありません。

私は自分の部屋でハンガーストライキをし、三日間布団をかぶって起きないでごはんも食べませんでした。……こっそり夜、釜の飯を少し食べていましたが。

母親は心配して、義兄から少し学費を借り、結局合格した看護短大に行くことができました。なんとか栃木県の田舎から、東京の小さな国際的な短大に入学できたのです。

私にとってその場所は今までの田舎の日本人だけの社会と違い、外国人もたくさんいるインターナショナルな社会でした。学生間では偏見も差別もない社会で、視野が広がりました。

もちろん私は田舎で育った中で近所の子供達の中でも、特に差別された感じはありませんでした。それは、我が家が近所の人達より裕福だったからかもしれません。両親が日々真剣に新しい仕事を探し、チャレンジし起業していたので、経済的に恵まれていました。

韓国人が日本人に差別や偏見を受けないようにするためには、周りの日本人より経済的にも、子供の学力も高いことが必要でした。

看護短大での生活

私は一九四三(昭和十八)年生まれです。戦時中の生まれで、二〇二三(令和五)年現在八十歳です。私は五十五年間助産師をやってきました。

ここで私のことを書きます。

前にも何回か触れましたが、年の離れた姉二人は私が小さい時にすでに嫁に行っており兄二人弟二人の真ん中として育ちました。兄弟が多かったからか、まるで男の子みたいです。

あまり親の厳しい躾がなく、雑草のように育ったからでしょう。また女だったからか、親から勉強、勉強と言われませんでした。ただ、私は勉強が好きな子供に育ったと思います。どうしてかわかりませんが……。