第1章 朝鮮から日本へ

ルーツ

私の両親はどこから何のために日本に来たのでしょうか?

私は子供の頃、両親から韓国のことを聞いたことがありません。私の両親は韓国からの出稼ぎで日本に来ました。父の名前「羅聖鳳(ナソンボン)」、母の名は「姜外善(カンウェソン)」で、本籍は「慶尚北道高霊郡安林道双林面」です。韓国大邱から車で一時間くらい離れた田舎です。父の実家は農家で兄弟五人の四番目です。母の実家は田舎の漢方医です。

韓国は一九一〇年から一九四五年まで、日本による植民地支配を受けていました。朝鮮総督府は韓国の農家の土地を取り上げました。韓国人の多くは農業で生活できなくなり、日本へ出稼ぎに行かざるを得なくなったのです。父は十六歳、母は十八歳で結婚しました。両親も同じように農業で生活ができなくなり、父は妻と子供を置いて単身日本に先に出稼ぎに行ったのです。

それから五年後の一九三八年、母は三人の子供を連れ、東京に出発することを決断しました。長男が五歳、二人の姉が十歳と十二歳の時です。母は日本語も読むことも書くことも話すこともできませんでしたが、東京の深川にいる父を訪ねて日本に渡ったのです。長女が日本語を話せたので助かったと言っていました。ブラジルから日本に来ている方も子供が日本語を話すので親が助かっている人がいますが、それと同じようなものですね。

当時の韓国人には日本に出稼ぎに行く人も多かったようです。だいたい先に父親が日本に行き、地盤が築けたら家族を迎えようと思っていたようですが、なかなか地盤を築けず、韓国に家族を置いたままで家族離散した人も多かったようです。私の周りの人も結構日本と韓国に二重家族を持っていたという悲劇を聞いたことがあります。

母はどうして子供三人を連れて日本に来ることができたのでしょうか。それは私の想像ですが、母方の祖父からの援助があったからだと思います。母の実家が当時、漢方医として裕福だったからでしょう。

父は当時単身ガラス工場で働いており、暑い中塩を舐めながら仕事をしていたと話してくれたのを覚えています。しかし、妻と子供達を迎え、サラリーマンの給料では経済的に苦しいので自営業を思い立ち、十能の製作販売をすることに着手しました。当時はお風呂を沸かしたりご飯を炊いたりする時は薪を使っていました。そこで消し炭を作ったり灰を運ぶために利用する小さいシャベルのようなものを十能といいます。どこで技術を覚えたのか、その十能の製造販売をしていたのです。

日本に来てまた子供が生まれました。昭和十四年に次男、十六年に三男、そして十八年に三女の私が生まれました。