第一部  夢は枯野をかけめぐる

人間本来無一物

芭蕉は俳句もまた、その理念に適合すると認められる水準にまで、高めることを決意したと推察する。また、和歌の西行、連歌の宗祇の生き様にも憧れた。いずれも法体で、行脚のなかに、生きる意味と、詩というものの本質を見出すという生き方に。

そのためには、己も全てを放下して、修行僧とおなじ境地に身を置く以外に道は無いと悟った。修行僧であれ俳諧師であれ、異なるものは何もない。芭蕉の心身から、地位・貴賤の垣根は消え、風羅坊の境地になり得た。

芭蕉の深川隠遁について、様ざまな説があるが、この深川への隠遁の決断がなければ、僧佛頂との出会いもなく、後世俳聖とよばれる生き様も無かったかもしれない。芭蕉の生涯最大の転換点であった。

以降の芭蕉は、吹っ切れたように全てを放下し、ひたすら俳諧の真髄を求めて、旅から旅の生涯を送ることになる。

野ざらし紀行

芭蕉四十一歳。八月、大和へ帰る門人千里を同行。東海道を西行し十年振りに、伊賀上野で母の墓参り。吉野 京都、近江と歌枕の地を巡り、先人の境地を辿る最初の旅となった。生涯続く旅の始まりである。冒頭に

「千里に旅立て、路粮をつつまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしのひとの杖にすがりて…」とあり

野ざらしを心に風のしむ身かな

後年、其角の言葉である「行脚餓死は師の本気」の始まりである。帰郷を果たした千里の実家に寄り、二人で、敬愛する西行の遺跡、吉野山を訪問している。吉野山頂奥千本の、やや崖下に隠れるように、六畳一間の庵(幾代目かの)が今も現存する。よく探さないと分からない位置で。

西行が三年間住みつき、風雅を極めた跡である。帰路は、大和から近江・美濃そして関ヶ原の古戦場に立つ。

秋風や藪も畠も不破の関

大垣では、江戸で入門していた木因宅に泊り、大垣藩士の近藤徐行・宮崎荊行が入門した。そのもてなしに、

明けぼのやしら魚しろきこと一寸