第一部  夢は枯野をかけめぐる

人間本来無一物

家出して寺へ駆け込む佛頂は幾度か連れ戻されたが、初志貫徹、八歳で、鹿嶋根本寺(臨済宗)住職冷山和尚の得度をうけ弟子となった。十四歳で、諸国の名僧との出会いを求める旅に出る。

旅では、房総沖で遭難、死の恐怖を経験した。その時の恐怖心に己の実態を悟る。こうした修行を経て、根本寺住職(最高位)になったのは三十三歳の時。八歳の子供を得度した冷山和尚は高齢に達し、余命を悟り、信頼するに足る僧に成長した佛頂を首座に据え、住職に据えた。

佛頂は就任早々に、訴訟に着手した事になる。芭蕉が江戸下向したのが三十一歳、同じ時期であった。訴訟完結までの八年間の中間点で、芭蕉との運命的な出会いを持った事になる。

勝訴という結果を得て、周囲の留任の懇願を振り切って、佛頂は四十四歳で根本寺の住職の座を後進に譲り、一介の修行僧として、布教と荒廃した寺の再興の旅に出る。

芭蕉が佛頂と出会ったのは、深川へ隠遁一年間の、苦悩の果てであった。天和元年春早々といわれている。初回より、両者はお互いを深く理解し合った。毎日、朝晩、取りつかれたように、芭蕉は佛頂の臨川庵に通ったと言われている。しかし、この年の暮、後年、振袖火事と呼ばれる大火があり、江戸を焼き尽くした。

芭蕉庵も焼け、甲斐の国谷村藩家老高山氏の下へ避難。翌天和二年、第二次芭蕉庵が、弟子達の計らいで完成し入居。芭蕉はひたむきに佛頂の説く禅の教義に没入した。色即是空の教義に。本気で僧になるところまで。佛頂もその気であった。

芭蕉の死後、佛頂は、臨川庵を臨川寺として建立したが、開山は佛頂とし、開基を松尾芭蕉として、現在に至っている。

  宗派  臨済宗 妙心寺派

  山号  瑞甕山

  寺号  臨川寺

  創建  正徳三年(一七一三) 芭蕉死後十九年

  開山  佛頂阿南禅師

  開基  松尾芭蕉

      所在地 江東区清澄三‒一‒六 現存

究極的には、芭蕉は俳諧の道を選んだ。貞享元年、四十一歳の八月、一切放下の境地に立って〝野ざらし紀行〟の旅に出る。この旅で、俳諧の道を歩くことに生涯をかける決心を固めた。こうした心の流れについて、いま一度佛頂に会って話をしたいというのが〝鹿島紀行〟の隠された動機であろう。