1 さて、お別れに、何を残そうか……

(1)どうやら人生は一回きりらしい

是非、生きているうちに見たいものであるが、ちょっと長生きしても40億年後は無理なような気がする。我々の子孫も含めて、人類が生きながらえるのも難しいかもしれない。

このような途方もない時間の一瞬一瞬に接しながら、私たち人類の一個一個の生命がある。長くても100年程度の人間一個の命は、星の命に比べればあまりにも儚いが、それゆえ、それを生きなければならない身からすれば、愛おしさがひとしお感じられないだろうか。

しかも、自分の命は、今を生きているこれ一回しかない。楽しいからもっと長くとか、もう一回やりたいといったʻおねだりʼは受けつけてもらえない。辛いからもうイヤだと思っても、自分でお終いにしてはいけない。自分の命が生かされている間は、生ききらなければいけない。

人生は一回きり、という厳然たる事実は、しかし、あまり重きを持って受け止められていないのではないだろうか。そんなの当たり前じゃないか、だから何だっていうのと、多くの人は感じるのかもしれない。

現在の日本では、多くの人々は、ʻ今ʼの人生がʻ次ʼの人生に繫がるという感覚を持っていない。その意味では、人生は一回きりでも仕様がないと潔く認め、一日一日をけなげに生きていると言えるだろう。

「現在の日本では」と少し限定したのは、少し前の日本、たとえば平安時代では、ʻ今ʼの人生はʻ次ʼの人生のためにあると考えるのが常識であったからである。

また一方、現代の世界のいたるところでは、生まれた途端に過酷な環境で生き延びることを余儀なくされ、今日の命を明日にどう繫げるか以上のことを考えられない人びとがいる。これらの人びとの多くは、この人生が次の人生に続くとでも思わなければ、ʻ今ʼを生きる希望を持てないに違いない。

古来、生きる希望を繫ぐ道しるべとして、宗教があった。仏教であれ、キリスト教、イスラム教であれ、多くの宗教は、次の人生すなわちʻ来世ʼをより良いものにするために、今の人生すなわちʻ現世ʼに良いことをしなさいよ、と教えている。