おとなしい性格の冬輝は、爽香の波乱に満ちた身の上話が好きだった。彼女は高校卒業後に地元の就職口を辞退して、何の当てもない都会へ着の身着のままやって来た。その話になると彼は、まるで冒険小説を読んでもらう少年のように目を輝かせる。

その羨望の眼差しを、爽香はあまり好きになれなかった。向こう見ずに実家を飛び出したせいで、アルバイトをいくつもかけ持ちし、自宅に帰っても化粧を落とす気力さえない日々。そんなものに憧れるなんて、どうかしているとしか思えない。

いつも理路整然と話す聡明な彼の目に、この現実はどのように映っているのか。いつしか爽香は、自分の過去、特に捨て去った実家の話題を避けるようになった。

冬輝が学校に行っている間、爽香はアルバイトに勤しんだ。彼の大学卒業と同時に籍を入れる予定だったからだ。今以上の幸せを目指し、日々学業に励む彼に報いるため、結婚資金を貯めるという目標は何より心身を奮い立たせた。

幸福への明確な道標を得た爽香は、己の血潮を一滴も余さず金銭に引き換えていった。疲労と寝不足のため、全身はいつも粘つくように重い。帰宅直後の玄関で寝入ってしまったことも、一度や二度ではなかった。そんな爽香の情熱に触発されたのか、冬輝はアルバイトを辞め、以前にも増して学業に専念するようになった。

さらに割のいいアルバイトを求め、パブのホステスを始めたのはちょうどその頃だ。酒が好きなわけでもなく、話術に長けているわけでも、ましてやしおらしく座っているだけで間が持つような美人でもない爽香は、当初、時給に釣られてこの世界に飛び込んだことを後悔していた。

それでも我慢して働いていると、半月ほど経った頃から少しずつ心境が変わってきた。

店の客は案外、礼儀をわきまえた気のいい男が多い。それに気づくと、自分がここで何をすべきかが明快になって、たちまち居心地がよくなった。罰ゲームでタバスコを一瓶飲んだり、身の回りの馬鹿話をしたりすると、目の前の客が腹を抱えて大喜びする。その瞬間が何より嬉しくてたまらなかった。

ホステスを始めて一年ほど経ったある日、虹色に輝くシャボン玉のような日常は、あっけなく弾けた。爽香の身に新しい命が宿ったからだ。変調に気づいて診察を受けると、妊娠八週目と告げられた。望ましい順序とは言えないが、それでも念願の一つが叶った喜びは大きく、診察室を出た爽香は涙が止まらなくなった。

その日の夜、嬉々として妊娠を報告した。冬輝は口を半開きにしたまま、ずいぶん長い間絶句していた。きっと飛び上がって喜ぶだろう。そう予想していただけに、彼の意外な反応には失望しかなかった。

カレンダーを埋めていた予定は、負担が少ないものだけを残し、あとはすべて消してしまった。当然飲酒は控えなければならず、ホステスのアルバイトなどもってのほかだ。自宅でおとなしくしていることが多くなり、これまでとは打って変わって穏やかで単調な毎日になった。

ただ、胸中にはずっと冬輝の戸惑った表情が垂れ込めていて、そこから聞こえてくる不気味な遠雷が止むことはなかった。