初飛行の私は、緊急事態が起こっているとも知らず、ああ、飛行機って火花を放って飛ぶものなのかーと、馬鹿なことを考えていると、機⾧が機内アナウンスで、エンジントラブルの為羽田に戻ると告げた。私達は無事羽田空港に戻り、飛行機が修理されるまで待ち、再度ホノルルに向けて出発した。

14人の交換留学生は、主にミシガン州とカリフォルニア州のホストファミリーに引き取られた。

私のホストファミリーであるリチャードソン(仮名)家は、ミシガン州のサウスゲイト市(アメリカ中西部の自動車産業のメッカとして知られるデトロイト市の南に位置する)に住むドイツ系アメリカ人一家で、父親は鉄工所のフォアマン(現場監督)、母親は隣にある家具屋でパートの店員として働いていた。

息子のデイビッド(仮名)は、サウスゲイト・ハイスクールのシニア(4年生)で、娘のマリア(仮名)は、フレッシュマン(1年生)であった。私はデイビッドと同じ、シニアクラスに入ることとなった。

サウスゲイト・ハイスクールは、サウスゲイト市の公立高校で、リチャードソン家から徒歩で30分ぐらいの所にあった。

私は、この道を裏に住む一級下のヴィクトリア(仮名)と歩いて通った。アメリカの高校で驚いたことが幾つかある。

まずは、数学や英語等の基礎科目は必須だが、そうでない科目は大学のように自分で選択できる。その為、先生が教室に来るのではなく、一つの授業が終わると生徒達が次のクラスに移動する。

因みに日本のようなクラス担任の先生はいない代わりにカウンセラーがおり、科目の選択や進学の相談等のアドバイスをする。授業内容も日本とは大きく異なる。

社会科のクラスだったと思うが、クラスが4つのグループに分けられ、各グループが一つの架空の国になり、各々の経済政策や軍事戦略をたて国同士の駆け引きをするというエクササイズが行われた。

日本の学校のように、先生が教えることをノートにとり暗記するといった縦割り型の授業でなく、生徒が自分達で考え、先生はコメントをする。因みに、サウスゲイト・ハイスクールには、その時の私の目から見ると「え? こんな人が高校の教師なの?」と思う人が何人かいた。

例えば、ブラウン先生は、当時恐らく20代後半だったと思うのだが、当時はやっていたベルボトム・パンツに体にピッタリしたサイケデリックカラーのトップス、もみあげを伸ばし、正にヒッピーそのもの。

学校へは、当時大人気の黒のコルベット(クライスラー社のスポーツカー)に乗ってやってくる。生徒達はブラウン氏を、先生というより自分達の仲間のように扱っていた。

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