第1章

交換留学生として渡米した高校時代

サウスゲイト・ハイスクールで驚かされたことはまだあった。今では日本の高校生も学校外ではメイクをするという女の子が増えて来ているようだが、当時のサウスゲイト・ハイスクールの殆どの女子生徒はメイクをして通学していた。

また、私が休み時間にトイレに行こうとして女子用トイレのドアを開けると中はタバコの煙でいっぱいだった。5~6人の女子生徒が便器の上に座り、タバコ休憩をとっていたのだ。

シニアクラスの女子生徒で妊娠中の子もいた。しかし、こうした生徒達は「不良女子」という訳ではない。「当時のミシガン州の高等学校」の中ではごく普通のことだったようだ。

ここで「当時のアメリカの高等学校」と言わず「当時のミシガン州の高等学校」と言ったのは、この時学校教育は各州の管轄であり、州によって教育規制や教育方針等が多少異なっていたからだ。

因みに、日本の文部省に該当するアメリカ教育省は1979年10月に設立された。リチャードソン一家は、熱心なキリスト教徒である。プロテスタント系の一派であるクリスチャン・ミッショナリー・アライアンス(CMA)に属し、日曜日の朝と夕方、水曜日の祈禱会には、家族全員で欠かさず出席する。

サウスゲイトは、文字通りデトロイトの南(サウス)に位置する小さな町で、当時はゼネラルモーターズ、フォード、クライスラー等、アメリカの大手自動車会社で働くブルーカラー労働者が多く住む町だった。

その後、日本の自動車メーカーも工場を持つことになり、日本人もサウスゲイトや近郊の町に住むことになるのだが、私が住んでいた時には日本人は全くおらず、私は必然的に1年間日本語を話す機会がなかった。

YFU の決まりで仲間の日本人交換留学生との交流も禁止されていた。これは英語をマスターするのには最高の環境であった。因みに、初めの3~4か月は、周りの人達の言っていることが殆ど分からず苦労した。

皆が私に話しかける時は、気を使ってゆっくり話してくれるのだが、自分達の間で話をしている時は、普通の速さ(その時の私には、かなり速く思えた)で話すので聞き取れない。

更に、話題が急テンポで変わっていくので会話について行けない。そこで私は、話の内容が分かっていなくとも皆が笑う時には一緒になって笑ったりして分かったようなふりをしていた。

現在のサウスゲイト・ハイスクールには、色々な人種の学生が通っていると聞くが、私が通っていた時には白人ばかりで、あえて言えば、私が、唯一の「有色人種」であった。