第二章 晴美と壁

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この気持ちは晴美にとって自然の成り行きであった。岡坂病院へ行く途中に『芳野吉峰書道塾』という看板を横目で見るのが、いつの間にか習慣となっていたからだ。

あそこがいい! 一発で晴美の心は定まった。早速、自宅からは自転車で二十分ほどかかるが、何の躊躇いもなく、『芳野吉峰書道塾』の門を叩いた。

三十人ほどの塾生たち――二十代から七十代まで――が静寂の中整然と正座して筆を動かしていた〈あぁ、いいなあ、この静けさ……〉。芳野吉峰先生は正面の紫檀の机に正座して、みんなを温かい眼差しで見つめている。

「私、書道を習いたいのですが……」

ともすれば怯みそうになる心を整え、しかし、その粛々とした雰囲気に酔いながら、晴美は恐る恐る小さい声で言った。

芳野吉峰先生は髪はロマンスグレーで、白くなった口髭と顎髭をたっぷりと蓄えて、いかにも書家といった雰囲気を醸し出していた。その容貌からは七十代半ばに見えた。整った顔立ちで上品さを飛び越えて気品が彼の四辺には漂っていた。二十四歳の若い晴美にもそれがはっきりと心に染みてくる。

「そう、いいですよ。私はあなたを歓迎しますよ」

その言葉は重々しい響きを伴っていた。

「ありがとうございます」

晴美は嬉しさのあまり、今までの硬い表情が、まるでシャボン玉が空中に消えていくようにすうーっと崩れた。

訊くところによると、お稽古は月曜日と金曜日の二回、午前十時から十一時までの一時間。月謝は五千円だ。妥当な金額である。晴美は帰りに文具店に寄って書道道具一式と半紙と大小の筆を買った。

デイケアは水曜日の午前十時から午後三時までだ。ちょうど、火曜日と木曜日と土、日曜日とまるで飛び石のように休みがある。よかった――。上手く事が運び、晴美は体いっぱいの感動を抱いて悦んだ。家に帰ると、晴美は早速母に報告した。

「お母さん、よかったわ。みんなが私の味方をしてくれるのよ。頑張りなさいと」

晴美はにこやかな表情で言った。

「それは、それは本当によかった。晴ちゃんは前向きに歩こうとしている。その熱意がみんなに伝わるの。だから応援してあげたいと思うのよ。きっと」