第二章 晴美と壁

『芳野吉峰書道塾』にいつの間にか着いた。「二十分」という時間の観念が五月末の心地良い薫風に煽られてどこかに飛んでしまっていた。

先生の自宅の離れにある『芳野吉峰書道塾』は二十畳ほどの和室を利用している。晴美の腕時計は九時四十分を指していた。二十分も前なのにすでに殆どの人が来ているようだ。みんな随分熱心であるに違いないと、晴美は思った。

入口で「ごめんください」と晴美はあらんばかりの大声を出した。緊張したときに出る晴美の癖である。正座で墨を磨っていた塾生たちの中には小声で話をする者もいたが、その大きい声に吃驚して一斉に眼を声の方へ向けた。

これにいちばん困り果てたのは晴美である。足がすくみ、玄関の三和土に釘付けになって体の動きが止まってしまった。芳野先生は晴美の状態にいち早く気がつき飛んできた。

「晴美くん、まぁそう硬くならないで入ってくれたまえ」

穏やかな声に晴美はすっかり平常心を取り戻したのである。

「ありがとうございます」

そう小さく言って、部屋の中へと入った。席は五列あり一列に七人ずつ座れるが、さてどこへ座ったらよいのだろうかと困っていると、芳野先生は「ここがいいよ」と促し、晴美は三列目の右から二番目に座った。芳野先生は大きく手を叩いた。

「皆さんに紹介します。今日から井意尾晴美くんが皆さんの仲間になりました。仲良くし、友達になって下さい」

甘い声で優しく言った。芳野先生は、晴美が普通の人とは違うことに感づいたようだが、塾生たちにもそれを印象づけたようだ。だが、それを曖気にも出さなかった。

「さあ、晴美くん、皆さんにご挨拶をして……」

晴美は、「あのう、わたし、私は井意尾、井意尾晴美と、と、いいます。今日から、よろしく、宜しくお願いします、お願いします」吃りながら、無器用に体を少し折り曲げた。

「はい、晴美くん、道具箱から硯を出して、墨を磨って下さい。書道は正座して心を整え、心の中を無にし墨を磨るところから始まります。こういう外からの形で書が整うのです。まず第一に大事なことはこれなのです」