イチローの大記録に寄せて

(二)

現場で観戦していた元オリックス時代の監督で、イチローの師匠でもある仰木彬氏は、この記録の瞬間「ジーンときて、まさに鳥肌が立った」と言っている。

その場で観戦していたマリナーズとレンジャーズ双方のファンはもとより、テレビの視聴者も一瞬、頭の中が真っ白になったに違いない。更に仰木氏は、「彼は一流には違いなかったが、今は超一流になった。私の想像を遥かに超えてしまった」と述べている。

仰木氏はオリックスの監督になってから、入団後一~二年、一軍と二軍を往き来していたイチローを、一軍の先頭打者に抜擢し、名前も鈴木一朗から「イチロー」に改名させた人である。

改名したイチローは、心機一転、この年(平成六年)近鉄との最終戦で4打数2安打を打ち、年間通算安打210本の日本記録を樹立、同時に3割8分4厘5毛の高打率をマークし、昭和四十五年に張本勲が打ち樹てた3割8分3厘4毛の記録を1厘1毛上回る、パ・リーグ新記録も達成したのである。

この1厘1毛の僅差の更新を文字通り「僅か」だったかと言ってはならない。高打率の場合、特に3割7分、8分となると1毛上げるのさえ容易ではないのである。

これについては後述する。ちなみに日本記録は、昭和六十一年当時阪神タイガースにいたランディー・バースが達成した3割8分9厘である。これとて僅か5厘の差でしかない。

この年を機にイチローの素晴しい快進撃が始まる。

平成六年から始まった首位打者(リーデイングヒッター)は、平成十二年まで続き、七年連続の日本記録となる。また平成十二年には3割8分7厘の高打率を残し、自身のもつパ・リーグ記録を2厘更新してしまった。日本記録まであと2厘に迫っていた。

そして終に平成十三年(二〇〇一年)、二十一世紀初頭にイチローは、俄然意を決してアメリカ大リーグの門を叩くことになる。