第二章 飛騨の中の白川郷

そういう利害が対立する話だけでなく、もっと実際の交通整理の当番を決めたり、観光客用の公衆トイレの清掃当番を決めたりするのも区長の仕事だ。そして、これら村の仕事は、すべて村人全員による無償の労働だ。

何らかの形で観光で儲けている人も、全然儲けていない人も、みな当番に組み込まれてタダで働く。こちらの言葉で言えばユイだ。 このユイの感覚が篠原には理解出来なかった。

篠原は三十一才、生まれも育ちも東京だから個人の生活を大切にすることが当然で、それが特に悪いことだとは思ってもみなかった。だから篠原は白川郷に来て初めて、個人の生活より村全体の方が当たり前のように尊重される生活を体験したのだ。

この村には一つ一つ挙げれば切りがないほど、村の仕事がある。例えば合掌造りは火に弱いから、毎日、村では火の用心の当番が回っている。しかも一日四回。午前十時、夕方、夜、さらに深夜十二時。深夜十二時のは特に『大廻り』と言って荻町区全体を一時間かけて二人で回る。

要所要所に印鑑が置かれて、回った証拠にこれを手帳に押す。東京で夜だけ一回でも当番として回ってきたら面倒だ、と思ったに違いないし、まして一日四回では仕事も休まなければならないから、絶対に断ったに違いない。しかし白川郷では誰も断る人はいない。

その他にも、集落にいくつもある消防団もユイだ。放水の仕方、ホースの扱い方など、みんな休日に集まっては訓練している。そんな時は女の人たちも、米洗い、という炊き出しに駆り出される。もちろんこれもユイだ。

前日の夕方から、女の人たちがパートや農作業などそれぞれの仕事が終わったあと、お米を持って公民館に集まり、米を洗っておにぎりの用意をする。当日の訓練に集まった人たちに振る舞うためだ。

有名なのは毎年の田植えのユイだが、もっと命がけのユイとしては、茅葺き屋根の葺き替えがある。これは下から十四、五メートルもある急勾配の屋根の葺き替えを、普通の村人みんなで一日で葺き替える。日頃から農作業や林業で身体を鍛えている人が多いかもしれないが、そんな危険な作業をよく出来るものだと篠原は思った。