「所領や田部を献上し、それを屯倉とした」とあれば従来説のとおりですが、そのようには記述されていないのです。

これらは、朝廷以外にも屯倉を所有していた者がいたことを物語っています。又、継体紀で、継体と戦って敗れた磐井の息子の葛子が「糟屋の屯倉」を差し出すことで命乞いをしたことになっています。これも、書紀の書き方とすれば、継体は朝廷側ですから、もともと朝廷のものである「屯倉」を差し出すこと自体論理矛盾になってしまいます。

但し、この「糟屋の屯倉」については後述しますが、ここでいう「みやけ」以上の意味がありそうです。

朝廷の直轄領であると固く信じている人々が、従来説のような漠然とした解説を作り出したと思います。

それでは、「みやけ」って一体何?

「みやけ」は収穫した稲をしまっておく穀物倉庫のことだったと思います。

「みやけ」という言葉は我が国の言葉であることは明らかです。すると、我が国の言葉の「やけ」は「屋+笥(け)」、「屋」は「建物」。「笥」は「はこ・入れ物」という意味ですから、「屋笥(やけ)」で「倉庫」のことです。「屋根」が「屋+嶺(ね)」で「建物の上を覆っている部分」の意味になっているのと同じです。頭の「み」は「実」が有力です。稲の実です。ですから、「実屋笥(みやけ)」で「穀物倉庫」の意味だと考えられるのです。

即ち、縄文時代から古墳時代に至る間に我が国に到来した、稲作を中心とする社会の出現によって環濠(かんごう)集落が形成されたことは、遺跡の発掘から明らかです。低湿地の稲作水田地域で、共同体の人々は収穫した稲を貯蔵する高床式の倉庫を造ったと考えられています。

これが「みやけ」の本来の姿と思われるのです。

【前回の記事を読む】稲作の広がりに併せて全国に広がった、古代社会の基盤と思われる「みやけ」の解明