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 深海の岩

新緑だった白樺の葉が濃緑へと深みを増して、昼下がりの初夏の陽光をはね返している。

文字から離れて顔を上げた僕の目に、その緑は驚くほど鮮やかに飛び込んできた。

いつの間に、こんな季節になっていたんだろう。

椅子から立ち上がった僕は、窓を全開にして外の風にあたった。土と、青臭さの混じった夏の匂いがした。

「休憩ですか」

分厚い本を広げたまま、老眼鏡を鼻の半分までずり下げて上目遣いに白石先生が尋ねてきた。長年教鞭を執っていた白石先生は、いつも聞き取りやすいしっかりとした発音で喋ってくれる。それでいて、雰囲気はとても穏やかで、物静かな先生だ。

同じ部屋にいてもあまり一緒にいる気配がしない。だからいつも僕は気兼ねなく本の世界へ入り込むことが出来た。

でも、今日は何となく、集中出来ない。

「ちょっと、風にあたりたくなって」

グラウンドと反対の山側に面したこの社会科準備室は、一年生の時からの僕の憩いの場だった。

社会科準備室、といえば立派に聞こえるが、実際は白石先生の自室に近かった。あちこち乱雑に本が積まれていて、そのほとんどが白石先生の私物だ。歴史物ばかり、多分相当マニアックなものも多いのだろうが、僕にはその区別さえつかない。

ただ僕でも読めるような、そしてもっと読みたくなるような、歴史にどんどん興味が湧いてくるような、そんな心をくすぐる本をいつも僕に薦めてくれる。

「今日は、部活動はよかったんですか」

「さぼっちゃいました」

「そうですか」

今日は休みです、と言ったとしてもきっと同じ返事をしただろうと思えるトーンで、白石先生は優しく答えた。

静かであたたかい祖父のような先生。

白石先生の気分が乗った時に語ってくれる過去の偉人たちや、それらにまつわる数々の物語を聞く時間が僕は好きだった。僕にとってここは、日常のいろんな雑音から逃れられる唯一の空間だった。

と言っても、とくに今の僕に深い悩みや煩わしさがあるというわけでもない。

小学校からほぼ持ち上がりで中学校に入学し、二年生になって、生徒も先生も去年から顔ぶれは変わらなくて、授業を受けて、部活に行って、そんなかわり映えのしない時間が流れていく毎日の中で、ああ高校入試までまだ長いなぁ、なんて、要するに今は中だるみの時期らしい。