飛燕日記

どこまででも歩いて行けそうな天候だったため、危うく通りすぎるところだった。引き返して地図アプリを確認すると、指定されたマンションは目の前にあった。彼は家の下まで降りると言っていたが、写真すらもらっていない。

ひとまず、近くに着いたと連絡をしたところで、一階のコンビニで立ち読みする男性の姿が目にとまった。二人いたが、なぜか右側の男性に意識が向く。黒のTシャツに短パン。中肉中背で眼鏡の男性。むさくるしさすら感じるような格好だが、そう見えないのは彼が若いからだろうか。

目星をつけて店内に入り、いったん商品棚に視線を向けてから、まるで偶然のように挨拶をした。セイヤですと言う声は、大樹のように伸びやかだった。そのまま二階のレンタルショップでDVDを借り、上の部屋に向かう。マンションの奥に進むにつれて自然光が減っていき、冬に逆戻りするようだった。

エレベーターが上昇しはじめる。一部がガラスになった扉から、足元へすぎていく階下が見えた。通過するフロアを見ながら、もしこの先に知らない人間たちが待ち構えていたら、と思う。目の前に立つ男性が一羽でメスを待つ燕ではなかったら、と考えた。

だが、それは根拠のない深読みだった。そういう展開もいいだろう。ここで乱暴されようが死んでしまおうが、なにも問題ではなかった。

出会い系殺人はどの時代にもあるが、おそらく被害に遭った本人たちは危険があることを知りながら会いに行っている。ニュースでは、ネット社会の闇だとか残忍で卑劣な犯行だとか、あたかも社会や犯人に問題があるように取り上げるが、被害者本人にも見直す点はあるはずだった。

私のような人間が、いつか警察の手を煩わせることになるのだろう。エレベーターのドアが開いた。セイヤさんの背に続いて廊下を進むと、半開きになった玄関が見えてきた。彼はドアにかませたコンクリートブロックを脇に転がすと、散乱した靴を踏みながら部屋に上がっていく。

「おじゃまします」

部屋には誰もいなかった。窓をすべて開けて、換気を最大限にしている。請求書や領収書が春風でテーブルの上に散らばっていた。本名が書かれていて咄嗟に目を逸らしたが、今度は壁にかけられたボクシング大会の賞状が目に飛びこんできた。

人の名前は、漢字になった瞬間に現実味が湧く。親が一文字ずつに意味をこめた名前に囲まれ、閉口した。ステンレスのタンブラーが彼の自慢だった。

「冷たい飲みものは冷たいまま、熱い飲みものも熱いまま飲めるんよ」

ドリンクはビール、映画はかの有名なアメリカンコミックが原作のものだった。突然変異した亀たちが忍者になって活躍する話で、封切りの日に友達と映画館に観に行ったことを思い出す。