第一章

3

記憶って不思議。時間は過去から現在、未来とつながっているのに、そんなことに関係なく記憶は蘇る。脈絡なく浮かんできては、消えていったりする。たまに鮮明な記憶もあったりするけれど、その記憶だって不確かなものだ。記憶は改ざんされるって誰かが言ってたけど、起こった出来事なんて、過ぎてしまえばお芝居みたいなもの。

パパのことを思い出す。

パパは言っていた。今日子。君の名前をつけるときパパとママはとっても悩んだんだよ。キョウコにするか、サクラ にするかでね。君は桜の季節に生まれたからさ。

どうして桜じゃなく、今日子になったの?と今日子は聞いた。

ママが嫌がったんだ。ほら、桜ってちょっと悲しいだろ?だから、今日子にしたんだよ、とパパは言った。

あのね、今日子。君の名前には意味があるんだ。今日というのは一日っていうことだ。それでね、一日っていうのは神様が作った時間なんだ。一週間とか一カ月というのは人間が作ったものだけど、一日はね、太陽が昇って沈むまでの時間だから、宇宙の時間なんだよ。

だからね、今日子。君がそうやって、朝起きて、歯を磨いて、笑って、泣いて、眠りにつく時間。それはね、神様の時間なんだ。その繰り返しが人生、生きるってことなんだ。

今日子。君の名前はね、一日一日を、神様の時間を、一生懸命に、大切に生きてほしい。今日を、いまを大事に生きてほしい。そう願ってパパとママは今日子って名前にしたんだ。

言い終わるとパパは私をぎゅっと抱き締めてくれた。

思い出す。パパのつけていた柑橘系のコロンの匂い。

匂いは記憶を蘇らせるっていうけど、あれは本当だ。いまでもあのコロンをつけている男の人がいると、思わず振り返ってしまう。あの匂いを嗅ぐと、パパの膝の上で鼻をくっつけながら話した、あの昼下がりにタイムスリップする。

大好きだったパパ。優しかったパパ。そのパパはもういない。弟の聡と一緒に天国に行ってしまった。

「ストーップ」

突然、河合が手を叩き、大声を上げた。ハッと我に返った。いつの間にかぼんやりとしていた。アルバイトの疲れが出ているのかもしれない、と今日子は思った。年末年始は実家に帰らずアルバイトに精を出した。次回の公演のため、少しでもお金を稼いでおく必要があったのだ。

思考を中断された今日子は、河合の顔を見た。演技を止めた河合の声に苛立ちを感じたからである。同じものを、他の役者たちも感じたらしかった。

演技を止められた役者、君島良美が不安そうに河合を見ているのが目に入る。

「なんかさあ、葛藤が見えないんだよね。テクニックでセリフ言ってるでしょ?」

河合は右手で顎を撫でながらにこやかな表情を作っていたが、その冷ややかな目はまったく笑っていなかった。

瞬時に、稽古場の温度が下がり、場が凍りつく。

「だから学生演劇あがりは困るんだよな。うわっつらの芝居ばかりやりやがって。感情ってのは理屈じゃないんだよ。溢れ出すものなんだよ。おまえの芝居、ロボットみたいじゃん」

河合は、淡々とそう言うと、パイプ椅子から立ち上がり、稽古場を舐めるように見回した。

今日子と目が合った。

「雨水。セリフ覚えてるよね?やってみて」

河合はまたにこっと笑ったが、眼光はさらに鋭さを増した。

河合幸一。

この劇団の主宰者であり、演出家であり、座付きの作者である。

劇団『幻影機関』を創立した人物であり、小劇場界のカリスマ。妻子持ちのワンマン主宰者であり、今日子の不倫相手でもある。

指名された今日子は、今度の上演台本『二十分間』を手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。

二十分というのは、日本人の平均セックス時間らしい。

その『二十分間』に愛はあるのか?がテーマであると河合が言っていた。

『愛』三部作の第一作として、河合が書き下ろした戯曲。それが今回の作品だった。

良美が演じていたのは、劇の主役である。

今日子はプレッシャーを感じた。主役の代役などやったことがない。

稽古場が静まり返った。

良美の視線が痛い。

劇団員の目が今日子に集まる。

深く息を吸い込む。目を瞑り、意識を集中させる。

今日子は、目を閉じたまま、吐息のように語り始めた。

「あの人と出会ったのは確かに偶然だった。だけど、ひとめで恋をした。道ならぬ恋だとはわかっていたわ。それでも自分に恋することを許したのは、もうこれ以上、愛のない生活には耐えられなかったから……もう限界だった」

今日子は目を開けた。もう誰の姿も目に入らなかった。気持ちが昂る。

「ずっと考えていたの。そう、その瞬間、あの時、この世界で、私たちは出会った。それは決して偶然なんかじゃない。大切な出会いはすべて、体と体が出会う前から、約束されている」

声が震える。深呼吸をする。

「劇的な出会いは、心が限界に達したときに起こる。私たちが気持ちのうえで一度死んで、生まれ直すときに。出会いは、私たちを待っている」

歯がカタカタと鳴る。顔の筋肉が引きつる。唇を噛んだ。

「誰でも愛することはできる。誰もがその才能を持っている。それを自然にできる人もいるけれど、多くの人は、どうやって愛せばいいのか、学ばなければならない」

台本が手からこぼれ落ちる。立っているのがつらい。

「欲望と失望の業火に焼かれなければならない」

昨夜の出来事が蘇る。

ラブホテルのトイレのドア越しに聞いた河合の押し殺した声。

「今日は遅くなる。ああ。いろいろ公演の準備があってさ。先に寝てていいよ」

妻子持ちの男。高校生の娘がいる男。私と交わった後、平気で妻と娘が待つ自宅に帰る男。

私はこの男を愛しているのか?
大きく息を吐いた。

「私は幸せになりたい。でも、それは許されることなんだろうか?」

セリフを声に出したとたん、体が震えた。

立っていられない。うずくまった。

誰かが手を叩いた。

「すばらしい。いい演技だ」

河合が手を叩きながら言った。今日子は泣いた。

震えはいつまでも止まらなかった。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『永遠と刹那の交差点に、君はいた。』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。