しかし、その前方後円墳の築造も千三百年ほど前に終焉して、「地方分権国家」から天皇中心(中央集権)の「専制的律令国家」へと転進し、約九百年前からの武家政治を経て、百六十年ほど前に明治維新を迎えました。

古代史研究とはなんであるかを考えた場合、私は、多くの遺跡の解析と、多くの主観的古文書の中から、どうやって客観的事象を拾い集めて整理するかということだと考えています。

幸いに我が国の隣国の中国は古くから文字文化が発達して、その古代の多くの対外関係資料を目にすることができます。これら中国の古代の対外資料は重要な客観的資料であると考えております。

文明・文化並びに国力が周辺諸国より際立って優位であった彼らが周辺国に関する記録をねつ造することなどは考えにくいことから、それらの記録のうち、我が国に関する部分は概ね我が国の客観的事実として認識できるものと思われるのです。

私は千三百年前以前を主に古代史研究の対象と考えています。

第一章 地方分権国家としての隆盛

1.「みやけ」

この古代史は、先ず、稲作の広がりに併せて全国に広がった、古代社会の基盤と思われる「みやけ」の解明から始めたいと思います。

今、世の中には「みやけ」として「宮家:皇族」、「三宅:名字」が認知されていますが、我が国には二千年以上前から「みやけ」があったようです。それは今では想像もできないものの名称として、です。「みやけ」という言葉は、我が国の基本的「経済単位」として、政治や社会生活の中に深く根ざした言葉だったのです。

古事記・日本書紀で「みやけ」と読まれているものは「屯倉(みやけ)」と「官家(みやけ:「宮」ではなく「官」ですから普通に読むと、つかさのいえ)」の二つがあります(以下、古事記は記、日本書紀は紀又は書紀と表記することがあります)。

風土記では他に「御宅」などや「郡家」、「正倉」を「みやけ」と読んでいます。「屯倉」は垂仁紀に「彌夜氣・みやけ」と注が付けられていますが、「官家」は日本古典文学大系新装本(以下、大系本)が「みやけ」と読んでいます。古事記の「渡屯家」も「みやけ」と読んでいるようです。