第二章 文学する&哲学するのは楽しい

学問的な話も時にはいいもの、少し付き合ってくれないか?

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アメリカ生まれの社会学がヨーロッパ哲学と接点を持ちヨーロッパ社会学になると、ここまで縦横軸のウイングが広がるものなのか、と驚かされる。1960年代、私を含め当時の学生は社会学を一段低いものに見做していた。その理由もないではなかった。社会現象説明学の深さしかなかったし、その位置付けしか得られていなかった。

ところが、歴史学に対し民俗学が補完学を超える力量を具えることになったように、地に足を付けた「ベタ研究」に専念した社会学は、下手な哲学など優に凌駕する社会科学の分野にまでなった。今や、社会を重層的に描写・説明する学問として、広く庶民まで納得させられる隣接の科学として、筆頭の位置にまで躍り出てしまった。隔世の感がある。実践的・実際的社会学にAIが加わったとき、この社会学はどんな姿になるのだろうか。

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人間が神というものを編み出して以来、あるいは神を発見して以来、神と人間のつなぎ方、手段と方法は、地域性を孕みつつ各様である。個人はあくまで個人として、神に直接結びつく契約を結ぶべきであるとする。従って神と人間の間に介在したがる組織(教会・寺院)と他人(神父・牧師・僧侶)を認めないとするものである。これこそが、都市宗教のイスラム教である。実に明快である。

この論理に従えば、「組織と他人」は、神と直接結びつく自分以下の存在であり、神に頭を下げても組織と他人には頭を下げないことに行き着く。世界のイスラム学者を惹きつけて已まないのは、この明快な点にあるのだろう(今となっては、イスラム学者故井筒俊彦さんの本音をお聞きすることは叶わない)。

さて、これだけなら、世界最高の宗教になったろうに、「アッラーへの絶対帰依」の教旨・宗旨に足を掬(すく)われることになった。難解な教義を理解できない一般大衆は、数義を噛みくだいて説明する者を必要とすることとなった。帰するところ、神との世俗的な仲介者の存在を生み、政教一如と先鋭な原理主義を生むことになった。皮肉である。