プロローグ

三十八年ほど前に夫の赴任に伴い住んでいたカナダのリッチモンド市。東向きのアパートの窓から見えるカナディアンロッキー山脈の残雪を今でも鮮やかに思い出す。漁師町であったスティーブストンにはたくさんの日系カナダ人が住んでいて、和気あいあいとした賑やかな町であった。

一世紀以上も前に移民としてカナダへ渡っていった日系人たち。いつも飄々(ひょうひょう)と楽しい話を聞かせてくれた人たち。彼らには戦前から戦中戦後へと長く差別された歴史があった。

その彼らの悲哀に満ちた人生を、カナダと日本に引き裂かれた家族や極寒の地での肉体労働、抑留生活に耐え忍んだ日々を中心に語っていこうと思う。

この本をもう鬼籍に入られた多くの日系カナダ人、今も現役で活躍している日系カナダ人たちに捧げます。そして、これからカナダへ旅立とうとしている若者たちにも、カナダの歴史の一端を担っていた日系カナダ人たちのことを知ってほしいです。

第一章 桜舞う   

卯月(うづき)の空が白々と明け始めた。自分が何か叫んでいる声で紗季は目覚めた。今見た夢は何だったのだろう。ぼんやりとした頭で夢を思い出そうとした。誰かの背中がスーッと靄の中に消えていく様子に思わず呼びとめようと右手を差し出して、声にならない声を出していた。

紗季は時々こうして寝言で叫ぶことがあり、夫の晃司や娘の真希に笑われる。

誰かに寝言を聞かれたのではないかと、そっと辺りを見回した。

慣れぬ光景に目をぱちくりさせながら、ああ、ここは指宿(いぶすき)だったと思い出した。二日前から晃司と二人で泊まりに来ていたのだ。紗季はベッドの中で大きく伸びをして、両手両足を前後に倒したり、ぐるぐる回したりして、起き上がる前にいつもの軽い運動を済ませた。

以前、朝早い電話に驚いて、慌てて立った途端に肉離れを起こしてから、朝は慎重に起きるようにしている。晃司はまだ寝ているかもしれないと、足音を忍ばせて一階に下りた。晃司はリビングのテーブルの上でパソコンを広げ、もう仕事をしていた。

「お早う、よく眠れた?」

晃司がパソコンの画面から紗季に目を向けて言った。

「お早う、久しぶりによく眠れた。昨日砂蒸し温泉に入ったせいか、体中の血液がフル回転している気分よ。コーヒーでも淹れるわね」

休暇中でもよく働く人だと、紗季は半分呆れながら晃司に言った。