第1章 朝鮮から日本へ

ドブロク

その頃韓国人は一般的に会社員になれず、いかにして生きるかで必死でした。

当時ドブロク作りは禁止されていたので(作ると「密造」になります)、税務署と警察が一緒になってドブロクを作っていると聞いた家に家宅捜査に入っていました。ドブロクの現物があったら、それを作った人を連行していくのです。

私は子供ながら、何をそんなに悪いことをしているのか理解できませんでした。たくさんの人々が我が家に入っていろいろなところを捜査しているのにただ震えていました。長兄や三男は両親がドブロクをこぼすのを手伝っていました。ドブロクの現物があると検挙されるので、作ったドブロクを捨てるのです。

せっかく作ったドブロクを簡単に捨てなくてはいけないのですから、両親は断腸の思いだったでしょう。結局最後はどうなったかわかりません。その後は記憶がないのです。父は結局警察に行かなくて済んだと長兄が言っていました。

織物小工場と縫製業

我が家は仕事を始めるのは早いですが、儲けがないとすばやく変えます。利益が見込めないと思ったら、すぐに仕事を変えてきたようです。子供の時はそんなに考えたことがなかったのですが、このように文章にしてみると、いかに隙間を狙って仕事を探して生活の糧を得ようとしてきたか、両親の努力を感じます。

養豚もやっていたはずですが、いつやめたのでしょう? 私の記憶にあまりありません。私が小学一年ごろでしょうか? 三、四年間くらいやったのでしょうか?

その次はまた新しい仕事に着手しました。

今度は家の隣の空き地に小さい工場を建てて、そこに織物の動力機械を四、五台入れ、本格的に織物工場の運営を始めました。織物を織る人も雇っていたと思います。資金はどこで調達したのでしょうか? また、どこで織物の技術を学んだのでしょうか? 急に織物工場を起こすのですから、今考えてもすごいです。

私達が住んでいる足利は当時絹織物が盛んで、銘仙(めいせん)という絹織物を織っていました。織物機械が動力なので「ガチャコン、ガチャコン」と織物機械の音が大きくてまるで騒音でした。弟が赤ちゃんの頃、隣の工場で機織り機械が動き出すと大声を出して泣いていたのですが、だんだんその騒音にも慣れて、今度は機械が止まったら泣くようになりましたから、本当に不思議でした。

工場ではあまりの騒音で簡単にお話ができません。その織物工場も三年くらい続けたでしょうか? 大がかりに仕事を始めましたが、あまり利益がなかったのかもしれません。やはりやめるのも速いです。