一 一匹のハエ

ハローワーク通い(注釈1)の六十歳の男が、初冬の昼下がりに部屋に入り込んだ季節外れのハエと格闘している。

理由は、説明が難しくなるので、「今までの生き方に関係している」、とでも言っておこう。

決着が付かずに、すでに一時間が無駄に過ぎている。たかが一匹のハエを退治するのに、男は新聞紙を丸めた叩き棒を作ったり、また、掃除機の吸い込み棒を使ったり、最後はタオルで鞭のように叩くのが効果的だ、などと工夫を凝らしている。

しかし、結末が見える前に男は、あまりにも小さなことに(こだわ)って異質なものを排除しようとしている自分を、「全く成長していない。何のために今まで生きてきたのか」と自己嫌悪に陥ってしまった。

こんな自分と決別したくなったのか、男は、寒空の下で一日を暮らすことを思いついた。

おかしなものである。一匹のハエは、暖を求めて家に入り込み、その代わりに老人はハエに追い出されるように、寒空の下に出ることを決心する。

ひょっとしたらホームレス生活になるかもしれない。サラリーマン時代の無理をしてきた人生を捨てたいかのようである。自分の人生の垢を無性に洗い流したい、と言った方が適切なのかもしれない。

あまりにも衝動的な行動と思えるが、それは意外と本質的な価値観に戻っての判断であろう。

他人事であるが、「その行動が命の(きわ)にはならないだけでも良いか」と思ってしまう。

私も、人は何のために生きるのか良くわからない。


注釈1 ハローワーク(和製語hello work)公共職業安定所の通称。1990年に採用。(広辞苑)