第二章 晴美と壁

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その日をきっかけに晴美は母親の手伝いをするようになった。料理だけでなく、掃除も自ら進んでした。

強張っていた体は徐々に動くようになり、晴美は嬉しくなった。頭を空っぽにしてただただ体を動かすこと。頑固に固くなっていた体さえ自由に動くようになれば……と晴美は彼女なりに懸命なのだ。

体を動かしたあとには脂汗が額にべっとりと滲んでくるが、タオルで汗を吹き取ると何と心地良いことだろうと実感した。

そんなある日の日曜日、父親は晴美に言った。夾竹桃が真っ赤な花をつけ、まるで焼けつくような真夏の季節を跳ね返すように咲きこぼれている昼下りであった。

「晴美、ちょっと話があるんだよ。父さんの知人から訊いたのだがね……」

「何なの、お父さん」

父親はいつになく、真顔で遥か遠くを見つめるように言う。

「あのな。四国のとある町では、健常者と精神障がい者やあそこでは善常者と呼ぶそうだが、共に生活しているそうな。そこは『円い町』と呼ばれている。父さんはな、晴美がそこへ行ったらどうかなと思うのだが……」

「えっ、私みたいな精神障がい者を善常者と呼ぶの……っ」

晴美はもう少しで体が引っくり返るほど驚いてしまった。精神障がい者を善常者と呼ぶとは――、一体どういうことなのだろう。彼女はそこにまず興味深く惹かれた。しかし、東京の片田舎であるここからは四国はあまりにも遠過ぎる。そんな遠い、見知らぬ土地で独りでやっていけるのだろうか。

晴美の迷い、思案する複雑な顔を見て、父親は言った。

「なあ、晴美。父さんは晴美の幸せを一番願っているんだよ。ここでは家から一歩踏み出ると精神障がい者への偏見と差別で満ち満ちている。そんな世間でお前が幸せになれるはずがない。母さんも父さんも晴美が生き生きと生きていけるのなら、それが一番よいと思っている。『可愛い子には旅をさせよ』って言うじゃないか。父さんはそんな心境なんだよ。それにもっと広い世界を知ることはとても大事だよ。思い切って行ってみたら、どうだろう?」