Ⅰ レッドの章

依頼人

三日間の滞在とはいえ、十三人がただで宿泊して、食事も提供してもらえ、自由に過ごせるというのは、物の不足していた時代に思いもよらぬ僥倖(ぎょうこう)で、若い貧乏学生たちに強い印象を与えた。学生たちは研究会や食事には洋館のライブラリーを使ってもいいと言われた。寝る場所は家の使用人たちが住んでいる後ろの日本家屋で雑魚寝だった。先生だけはベッド式の客用寝室を提供された。

彼らの密かな期待に応えて、毎晩神林家の女中が運んで来る海の幸には、先生も学生たちも目を細め舌鼓を打った。戦争が終わって三年が経ち、我が国の漁業も少しずつ活気を取り戻しつつあったと見える。

彼らは先生と正次の母親に多少の遠慮があったので屋敷には酒を持ち込まなかったが、代わりに夕食が終わると〝散歩〟と称して街に繰り出し、酒屋でカストリ(注:芋や麦を発酵させた密造酒)なんかをコップで立ち飲みしたりしたが、正次はついて来なかった。中には飲み過ぎてへべれけになり、仲間が担いで家に戻らなければならない剛の者もいたが、それがばれて先生にこっぴどく叱られた。

無学な労働者ならともかく、失明の恐れのあるバクダン(注:メチルアルコールを材料にした密造酒)やカストリを飲むとは学問の士のすることか、というわけである。だがかく言う先生は持参のウイスキーを自室でチビチビやっていたらしいのだから、どうも締まりのない話だった。

正次の両親は息子の大学の恩師に敬意を払い、ことに母親は下にも置かぬもてなし振りだったが、彼女が学生一人一人の出身地と親の職業を尋ねるのには閉口だった。

彼女の右手の薬指には大きな透明の石が光っていたが、後で聞くと本物のダイヤだという話だった。仲間の内には正次一家の暮らし振りに多少のやっかみを込めて、「あの母親は戦時中のダイヤ供出令に違反してこっそり隠し持っていたのに違いない」と(ささや)く者もいた。

親父の方は逆にいかにも田舎の成金タイプで恰幅は良かったが言動はがさつだった。ただし彼は学生たちの集まりには最初に顔を見せただけで余り話はしなかった。正次はこの両親を少々恥じている風だった。

なぜ彼は夏休みに我が家にゼミ仲間を誘ったのか? 後で、ゼミの教授が勉強会の宿探しに苦労していると知って熱心に来るように勧めたのは彼の母だったことが分かった。