プロローグ

一九五一年十一月五日。それは戦争中の爆撃による火災以来、この町が体験する最大級の火事だった。朝から降っていた雨は夕方からみぞれになった。しかしそれは火の勢いを消すまでには至らなかった。町は中心街とはいっても舗装されておらず、少しの雨にもすぐに道はぬかるんでしまう。雨の多いこの地方では比較的広い道でも消防車が乗り入れるのに苦労するのが常だった。

焼けた建物は昭和の初期、まだ大正デモクラシーの(いき)とハイカラ好みが、そこかしこに見受けられた時代に建てられた洋風建築だった。当時人気のあった建築家が残した洋風建築物の多くは、戦時中に少なからず焼失してしまった。個人の所有とはいえこの町では珍しい和洋折衷の家屋は、これといって特徴のない田舎の町で、文化財として指定されてもいいような個性のある建物だった。

夜になってみぞれ混じりの雨は止んだが、代わりに強い風に見舞われた。大陸からの季節風が湿った重い大気を吹き付けてきた。消防車はぬかるみにタイヤを取られ、現場への道を阻まれた。折からの強風にあおられて炎は夜空に大きく舞い上がり、パチパチと音を立て、黒い煙が辺りを包んだ。

荒れた天候にもかかわらず多くの野次馬が群がっていた。人々は恐ろしい火の勢いと、焼けているのがこの町で有数の資産家の邸宅であることに衝撃を受け、言葉もなく立ち尽くした。消防車がようやく建物の前に乗り入れて消火活動を始めた時には、木造の家屋はほぼ全焼、懸命の消火作業にもかかわらず、残った洋館も外壁の一部を残して七分がた焼け落ちた。

翌朝は風は止んでいたが粉雪が時々舞い降りる天気だった。その中で現場検証が行われた。黒く焼け焦げた家屋の残骸に、雪がうっすらと積もっていく。焼け残った屋根の(ひさし)には、昨夜消防車がかけた水がつららになって溶けながら滴り落ちていた。

警察は焼け跡に焼死体を発見した。当時邸にいたのは当主の神林(かんばやし)(てい)一郎(いちろう)だけで妻は不在、息子は京都にいて一年以上帰っていなかった。住み込みのお手伝いは休みを取っていたという。現場で煙に巻かれたり、やけどを負った負傷者は報告されなかった。空気が湿っていたとはいえ付近に延焼もせず、複数の死人を出さなかったのは奇跡だ、と消防隊長は言った。

警察は焼死体は邸の主であると推測、しかし単なる失火ではなく放火の疑いありと見た。邸の勝手口が最も激しく焼け落ちており、ガソリンの臭いが強く漂っていた。警察はその場所で焼け焦げた二十リットル入りの油の缶の残骸を発見した。消失があまりにも完璧だった為に、犯人の犯行を裏付ける有力な物的証拠はそれ以外何も発見されなかった。