【前回の記事を読む】幼いころから素養があった?108回お遍路参りした男が「好きだったこと」

序章 我がへんろ旅、発心の記――88(パッパッ)の時間帯で得た喜び

二 生い立ち、そして歩く喜びとの出会い

その後、学校を出てじきに故郷を後にした私は、今も住んでいる大阪で電気工事士の仕事や、タクシーの運転手をして暮らしを立てる様になります。当時は、日本全体が高度経済成長のピークへと向かう頃でしたから、日々の仕事も非常に忙しく、結婚し、子どもも生まれて、ささやかながら充実した日々。生来あまり人付き合いの得意でない性分でもあり、故郷の義理の兄弟等親戚との交わりもなく、古くからの友人もなく、ひたすら家族の暮らしと幸せを守るため、働き続けた数十年だったといえるでしょう。

三 へんろ旅に先立つ「三百名山」挑戦

40歳の年に、長い運転手生活のせいか坐骨神経痛を患ったのをきっかけとして、警備会社に転職しました。そしてその頃から、趣味として登山をする様になったのです。

趣味と書きましたが、それはいわゆる楽しみとしての山登りとは少し違っていたかもしれません。そういう楽しみとしては、週に一回、小遣いの範囲での競馬があり、登山の方はもっと切実な願望といえばいいでしょうか。ただただ「歩きたい」「登りたい」という強い気持ちに引っ張られる様に、休みが取れれば一人で山へ向かう年月が続きました。

生来、凝り性の面があるせいか、単に近くの山を気ままに歩くという登山では、満足がいきません。そこで目標としたのが、作家で登山家の深田久弥さんが選んだ『日本百名山』を全て登るという、自分でも無謀に感じた企てで、歩けるうちに歩きたいという切実な気持ちから、定年退職を機に働く事をやめました。

その後は、北から南、全国の百名山を次々に訪れる様になりますが、それには当時、成長した娘の起こした事業がかなりの成功を収め、家族の暮らしを支えてもらえる様になった点が大きく、私事ながら改めて深く感謝するばかりです。

ただ、そうして登山を生活の中心にしてみると、最初は無謀だと思った百名山全部の踏破という目標も、けっして難しいとは感じられません。始める前は100座を登るのに10年は掛かると思っていたのが、何気なく続けているうちに1年で早くも75座を登っていました。

これではいかんと、取りあえず残る25山を登ると、もう一回最初から100山を再踏破。それをまた約3年ほどで登ってしまった後は、深田さんの遺志を継いで深田クラブが新たに選んだ二百名山(当初の分も合わせて「日本三百名山」と呼ばれます)に挑戦しました。

しかも私の場合、通常の様に山頂に着いたら終わりというのではありません。そのまま往路とは別な登山口まで下山し、そこからまた折り返して最初の登山口まで戻る事にしていましたので、実質は一回の登山で“往復”二回という計算になります。

実際、当時はひたすらに歩きたくて、そうでもしないと満足できないというのが正直なところ。頂上に着いても他の人たちの様に記念写真を撮るわけでなく、ただ通過点という気持ちで、無心に足を運び続けていました。