【前回の記事を読む】「へんろは、心身一体の旅」合計108回!? お遍路参りを続けたワケは…

序章 我がへんろ旅、発心の記――88(パッパッ)の時間帯で得た喜び

二 生い立ち、そして歩く喜びとの出会い

私は、1940(昭和15)年に徳島県内の当時は勝浦郡と呼ばれた山の中で生まれました。

周辺には、家に伝わる記録を見ると16くらいの集落があった様です。家はそうした集落の長の様な立場で、たとえば神社を建てる時に先頭に立って寄進をしたり、皆からの寄付の取りまとめをしたり、様々な工事の折に測量をしたり、そんなある種のリーダー役を務めていました。

家の宗派は曹洞宗だったそうで、自分の所に子どもがいなかったため、お寺の関係で集落の親しい家から養子を取り、立派な教育もさせて将来に期待を掛けていたのが、日露戦争で出世したのは良かったものの、大陸で戦死してしまった。で、私の父がその跡を継いだという事です。

父は学校を出てから先生をしていて、土地には教え子が沢山いました。そうした人徳もあって次期村長にと村人の声が出始めた矢先に肺炎にかかり、34歳で没したのが私の1歳の時です。

母は父の二度目の連れ合いで、私の前に姉が一人、その上には父と前妻との間の子ども(長女、長男、次男)がいましたが、父の没後、わけあって母は実子である姉と私、そして父の死後に生まれた弟を連れて家を出て暮らしました。

そんな経緯で、父の事はほとんど何も知らず、家を出た母子の生活も経済的に非常に厳しい毎日。恵まれていた生家や、義理の姉兄とも全く別々に過ごした私の子ども時代は、どちらかというと孤独で、周囲の同年代の子どもたちと一緒になってはしゃぐというタイプではなかった様に思います。

勉強については、今こうして一冊の本を書いてはいるものの、当時は綴り方(今でいう作文)や国語の方はあまり出来の良い方ではなく、もっぱら算数が大の得意。問題を出されると、自分で方程式というか、計算式を案出して解くのが上手で、小学校の時には中学校でやる様なややこしい課題もどんどんやっていました。

ちなみに計算は今でも得手で、外で食事をした時等も何をどれだけ食べて飲んで、合計いくらとすぐに答えられます。後の章でも、88カ寺それぞれの札寺と札寺の間の距離や、境内の階段の数、掛かった時間や歩数等を事細かにご紹介していますが、それも子ども時代からの計算好きが役立ったといえるかもしれません。